江陵晩暁


 仁義に篤い将軍だと聞く
 こう言ったのは程普である。
 程普は呉軍の将軍の中では最年長であり、孫堅が黄巾と呼ばれる乱の鎮圧軍に参加した頃から付き従っている古参である。
 孫堅が初めて軍を出したころから、劉備も義勇軍に参加している。
 曹操とも同年代だろう。若手の、いわば二代目世代の周瑜には身近ではないような時のことも程普は知っているのだ。
「仁義ですか、それはそれは」
 ご大層なものを背負っていらっしゃる
 周瑜の言外の皮肉に気づいたのだろう、程普はくっくと苦笑して酒を飲んだ。
「そう言うでない、仁義というものが恐ろしいのは、その仁義が限りない魅力として人に映ることだ。だからこそ、劉玄徳に付き従うものは少ないものの慕われる。こうして考えてみると、文台将軍の頃から比べて大きくなったものだ」
 最後につぶやかれた言葉は東呉のことをさすのだろう。
 程普の言葉に、周瑜は唇を引き結んだ。
「大きくなどない、まだ大きくなどないのです。曹孟徳に比ぶこともおぼつかない。まだ南全てを制圧したわけでもない」
 独り言のような周瑜の言葉に程普は困ったものでも見るように目を向ける。
「おまえは初めから、天下を見ているのか」
 程普に言われ、周瑜は程普の瞳を真正面からとらえた。
 天下
 魯肅という青年は天下という言葉をするりと口にした。周瑜という青年も、初めて参軍したころから天下というものを見ていたのだろうか。自分が青年であった頃には考えることすらできなかったものを。
 乱れた王朝を立て直すために挙兵ようと決意したのはいつであったか、おそらくは孫堅が挙兵の話しを持ち出した頃であろう、自分もそれに賛同した。腐敗した王朝をどうにかしたかったのだ。そのころには天下を取るなどという夢は夢でしかなかった。だがこの青年たちは本気で天下というものを夢見ている。
「これからです、南を制圧し、それから中央部の荊州から北に、西から挟撃、洛陽攻めから許昌攻めに転じ、それから曹賊を抑える」
 熱にでもうかされたように周瑜の言う話しは、夢見がちな話しだとばかりは言えない。
 そこまでの経路は周瑜の思考回路の中では出来上がっているのだろう。
「それで、劉玄徳がどうかしたのか」
 苦笑しながら聞く程普に、周瑜ははたと思い出したように手を打つと机上に乗り出した。
「それですが、もし劉玄徳を殺すのでなければ、なにかこう手なずける方法というものがあるはずでしょう。それが可能であれば、劉玄徳を東呉の勢力に留めることができましょう。そうなれば子敬兄があの男を連れ込んだのを有利にできるとは思いませぬか」
 周瑜の言い方に程普は口を濁すほかにはなく、程普の様子に周瑜は駄目ですかとつぶやきながら浮かした腰をもとにもどす。夢中になったときに机上に乗り出す周瑜の癖は少年の頃から相変わらずで、程普はそれにも苦笑した。
「私は生憎と劉玄徳という男の欠点はよくわからん。それは自分で考えてみることだろうが、おまえはどうも難しいことばかりが気にかかるらしい。曹孟徳のことにしろ、劉玄徳のことにしろ、若いおまえが考えてもどうにも解せぬところは多かろうよ」
 あと三十年は生きてみろとでも言うような程普に、周瑜はふてくされたような顔をむけて見せる。
「仁義に篤い将軍は敗けを能くする将軍であり、皇叔でありながら得たいの知れない男であり、私がその歳になってみなければ理解できない男というわけですか」
 程普に酒を注ぎながら、周瑜はふうむと唸った。
 面白い青年になったものだと程普は内心で苦笑した。
 初めて孫家の邸を尋ねてきたときにはこまっしゃくれた小僧だと思ったものだが、この戦で周瑜という青年をあらためて面倒見る羽目になり、逃げ場もなく青年の茶を濁すような話に付き合っていたが、面白い話しをする青年になったものだと程普は興味深く周瑜を眺める。
「それではもし、あの男が東呉に留まって不都合なことはあるでしょうか」
 上目遣いの周瑜に質問され、程普は首を振った。
「不都合というものはないだろうが、油断のならん男だろう」
 程普の答えに周瑜はわからんと首をふった。
「おそらく私には一生理解できんでしょうな」
 諦めたようでもあり、どこか釈然としていないようでもある周瑜のため息混じりの口調は今度こそ程普を笑わせた。
「面白いヤツになったなあ」
 程普の言葉に、どこがですかと周瑜はまじめにふてくされたのであった。
 幕舎に戻り、周瑜は疲れたように転がったものの、仁義に篤いという将軍の話しは最近聞いたなと周瑜はすぐに牀から飛び跳ねるように起き出した。あれはなんの話しだったか。
「そうか、関雲長将軍が曹孟徳を逃したと言ってきたのだったな」
 仁というものと義というもの、それが関羽という将軍をしてそうさせたというのであればあるいは劉備もそういった人間なのだろうか。
「ならば姻縁を結んでしまえば抑えることも不可能ではないか」
 思いつき、周瑜はそれを個人的戦略の決定稿として内心に留めることにした。
 自分ではよいできだと思ってはいるのだが、しかし朝になって悪夢で飛び起きる羽目になったのだった。

 きんっという金属のぶつかる音がまだ耳に残り、興奮から覚めやらぬのは呂蒙である。
 戦場独特の空気に一五の頃から親しんできたものの、戦場がもたらす高揚感はいつになってもぬぐいきれるものではなかった。
 赤壁での大勝から昂ぶったままの精神は魏軍と対峙したときにも呂蒙をひるませることはなかった。ましてや呂蒙の統括する軍は曹仁の別部よりも多かっただろう。
「譲開(退け)!要不然、我没有保証不殺ニィメン(さもなくば俺は貴様らを殺さんという保証はないぞ)!」
 数十騎も数百騎とも聞こえる馬の蹄の音で、まず囲みが緩んだところに呂蒙は斬りこむ。
 守りが薄くなったところで、中からは甘寧隊が打って出た。
「子明!帥エィ(格好いいぞ)!」
 甘寧の濁声が聞こえて呂蒙は呆れた。甘寧に帥と言われるのはこれが初めてでもないがこの場合には呆れるほかはなかろうと呂蒙は舌打ちし、斜め下から突き出された槍を跳ね上げてから円を描くように剣を振って斬り倒す。
「興覇(シンバ)!ニィ没事バ(大丈夫だろう)!」
 声を張り上げながら斬り込みかけて囲みを崩し呂蒙は甘寧にむかってニヤニヤと笑いながら声をかけ、甘寧は呆れたように首をすくめた。
「子明(ヅゥミン)、ニィ真壊ヨォ(本当にやなヤツだな)!」
 苦笑しながら返す甘寧に、急げと呂蒙は顔をわざとらしくしかめて見せる。
 囲みを抜け、甘寧はずっと気にかかっていたことを呂蒙に問い掛けた。
「子明、つかぬことを聞くようだが公績はどうした」
 鼻を掻きながら聞いてくる甘寧に、呂蒙はふてくされたように甘寧をちらりと見る。
「あのバカは都督のところだ」
「バカは都督のところか」
 唐虎は甘寧の横で苦笑し、小梁は呂蒙の後ろで苦笑する。
「都督がお守りに疲れきっていなきゃいいんだが」
 甘寧の口の悪さには唐虎が将軍と声をかけて諌めたが、この程度は悪言に入らないのが呂蒙隊である。別に甘寧が素でどんな口の悪さを披露しようが呂蒙は慣れているし小梁も慣れている。
「唐先生、うちの将軍だって口だけはしっかり悪いんすから気にしなくていいっすよ」
 どこか砕けた口調で言って見せる小梁に唐虎はそうっすかと笑った。
 どうやら近所らしく、方言は近いようである。
「あの寝小便タレがちったぁ成長してるといいんだがね」
 呂蒙の少し刺のある言い方に、甘寧は首をかしげた。普段はこれも冗談ごかしに苦笑しながら言う程度なのだが、今日は妙に刺が立っている。
 横で小梁が解説をいれた。
「甘当口令、中郎将は出てくる前に凌都尉に怒らされたんです。それで凌都尉のことになると機嫌が悪いだけですのでお気になさらず」
 甘寧はなるほどと納得したのだが、当の呂蒙はよけいなことを言わなんでいいと言って小梁の頭を一発叩いた。


江陵晩暁8へ続く

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