江陵晩暁


 曹操が欲しがるだけのことはあるらしい
 そう唸ったのは曹仁の率直な感想である。
 長江に陣を構えた呉軍の守りは、よく躾られた兵士がするすると滑るように指揮官のいうことを聞く。
 しかしここ数日その動きが冴えない。
 これは夷陵の方へ送った別働隊が功を奏したのに違いない。
 城内で曹仁がニヤニヤと笑っていることなど、周瑜には目下直接に関係はない。

 周瑜が目下気にしているのは甘寧隊と呂蒙隊、それから劉備の始末と妻の悋気である。
 どこからどうして情報を仕入れたのかもわからないが、妻からの不思議な信をもらって周瑜は狼狽した。
 妻の方は、夫が帰ってこようとしないのは女ができたからではないかと侍女に言われたらしく、陣の近くで可愛い女でも見つけたのかと書かれてきた。
 もちろんその侍女も冗談で言ったのだろうが、さすがの周瑜もこの悋気には耐えられない。
 特に妻を不安にさせたのは、魯肅が帰り、孫賁が帰ったのになぜ周瑜が帰らないのかということであったらしい。
 信を置き、周瑜はどうしようもなさそうに牀の上であぐらをかいて自分の頬をさする。
 頬にはうっすらと、白い線が残っている。
 前に戦でついた傷が残ったのだ。周瑜自身は女でもないから気になどしないのだが、侍女たちは大騒ぎした。
 本人にしてみれば、戦場に行く男の勲章だとでもいわんばかりに、傷を引きつらせて笑顔で帰ってきたのだから、妻にも「あらまあ」というぐらいで苦笑してもらって終わりだという程度にしてほしかったのだが、以来夜這いをかけても頬を撫でられてため息をつかれるのだからたまったものではない。
 この夜這いも問題である。
 戦から帰って数日休み、家族サービスも少しはしようかというところで、夫婦なのだから遠慮も何もなく妻を抱いてもよさそうなものだと周瑜は思うのだが、妻をないがしろにしていると恨み言を言って直りきっていない傷を叩くものだから夫としては鈍痛にうめくしかないのである。
 今ごろ陸遜が姪に傷をつつかれてかさぶたを剥がされているだろうと思うと、周瑜はざまあ見ろと思って悦にいることができる。
 もっとも陸遜のほうはといえば、幼な妻には傷のかさぶたを剥がされるどころか、毎日こまめに傷の消毒をしてもらっている。周瑜には聞かせられないようなバカップルぶりである。
 さてと劉備のことに考えを戻し、周瑜ははたと気がついた。
 一体あの男の何が怖かったのか。
 今になってわかった。
 劉備という男の笑いには、得たいの知れないところがあるのだ。
 裏のなさそうな笑顔を向けながら、その陰では何を企まれているのか窺い知れない。
 そんな男を信頼して、曹仁の裏をついてもらおうと企んでいる自分に、周瑜は呆れた。

 ぴったり十日だ
 呂蒙は内心で快哉を叫びながら呉軍本陣に戻った。
「よく戻ったな」
 程普のねぎらいに、呂蒙は照れたように笑う。
 致命傷を負わずに帰ってきた甘寧に、凌統がけっとよそを向く。
「おっさんよく戻れたな」
 凌統の言い方に、呂蒙がげんこつを食らわせた。
「この寝ション便タレが。まだ言ってんのか」
 呂蒙という男は、怒るまでには時間は要らないが、怒りがおさまるまでに時間がかかる人間であった。
 静かな呂蒙の肩を、甘寧は怒るなよと言いながら軽く叩いた。
「おい!肩を叩くな、傷口が開いたらどうしてくれる」
 押さえこんだような呂蒙の悲鳴に、相当痛そうだと小梁は同情した。
 ちなみに小梁はといえば、かすり傷ではあるが、額につけられた傷が少しだけ彼に凄みをつけたようである。その彼は、最近少し楽をすることが、いや、仕事に専念することができるようになってきた。
 呂蒙の家庭教師役を一人で請け負う必要がなくなったのである。
 もちろん代筆業で稼ぐことは続けるらしいのだが、どこだかで役人をしていた馮栄という男が呂蒙隊に入ってきたからだ。
 この男は、呂蒙よりも少し年齢が上らしく、それなりの風格はあるが、見た目からして文化人然としたところがある。呂蒙と同年代ぐらいの小梁から見ても、やさしげな風貌のお兄さんといったところなのだが、案に相違して、いざ春秋を開くと暗記するまでは一項も進まないといったありさまである。
 これには小梁も参った。
 この男に春秋から韓非子まで対抗できるのは魯肅ぐらいではなかろうかと、小梁はつくづく思う。
 うめきながら呂蒙が程普と周瑜へ挨拶回りをしている間に、小梁は現場監督の役を果たすべく陣へともどった。呂蒙隊と甘寧隊の陣を張り終えると、それから炊事が始まる。
「すみません、これはどこへ」
 馮栄に声をかけられ、小梁ははっとした。
 子敬大人とこの人は、どこか共通するなにかがある
 小梁はそんなことを考えながら馮栄のもったものを眺め、それから呂蒙の幕舎を指してあちらへと馮栄に向かって言った。
 馮栄がもっていたのは、とりもなおさず呂蒙の枕、もとい教科書である。
「枕元には置かない方がいいです、あの人枕元に竹簡を置いたら絶対に枕にしますから」
 丁寧な言葉で穏やかに言う小梁に、役人であっただけのことはあるという穏やかな仕草で手を組んで挨拶し、それから馮栄は呂蒙の幕舎の方へと歩いて行く。
「あの人も怒らない類の人かな、そういや魯大人の賭けはどうなったんだろうか」
 仕草を見ても、やはり呂蒙よりは魯肅に近いと思うのだが、ひょっとしたら周瑜、魯肅と類は友を呼ぶというかたちでここにふらふら来たのだろうかなどと、小梁はいらぬ推測をし、後日呂蒙の代筆をする傍らでじっと馮栄を観察するにいたった。
 一方で、凌統に関する甘寧の心配は杞憂に終わったということで、甘寧がほおっと息をついていた。
 安堵のため息だ。
「寝ション便タレもよくがんばってたじゃねえか、なあ子明、出立前のことは多めに見てやれや」
 帰還の挨拶から幕舎へと戻る途中で聞かされた甘寧の言葉に、呂蒙はふんと照れくさそうによそを向いた。
「やりゃできるんだ。それをうだうだぬかしやがるヤツがいかん」
 呂蒙の言いぐさに、甘寧はそれこそ腹を抱えて笑った。
「やはり子明だな。まあ、坊ちゃんの反抗期で心底腹ぁ立てるようなケツの穴の小せえ男は俺の知った中にゃいねえし、そんな男はこっちから願い下げってことだが」
 甘寧の割鐘のような笑い声に、呂蒙はけっとつばを吐きすてる。
「クソガキぁクソガキだ。俺がヤツぐらいの頃には俺はきちんと持ち場を守ったぞ」
 呂蒙の言葉に、今度は甘寧がけっと返す。
「今更お子さんと張り合うんじゃねえ。俺ぁやっぱりどこかでクソガキが気になってたんだよ。生きててくれてよかった」
 心底ほっとした様子の甘寧に、呂蒙がすかさず小声で茶々を入れた。
 いくつになっても親父さんてのはありがてえ
 けらけらと笑う呂蒙の肩をつかもうとした甘寧の手が空振りする。
「へっへっへ!いつまでも無防備に傷口さらすと思うな」
 そう言う呂蒙が、今度は身をかがめて甘寧のわき腹をつつこうとする。甘寧がわっと声をあげて呂蒙をよけた。甘寧が負傷したのは、どうやらわき腹近くらしかった。
 後ろからばしっと背中を叩かれて、呂蒙が反転すると、目の前に程普がいた。
「小僧、よくがんばった」
 三十もも近いはずの呂蒙を小僧呼ばわりするのだから、やはり長老はすごいと再確認した甘寧である。
 そのまますたすたと歩いて行く程普の後姿に、呂蒙が口を開いた。程普にではなく甘寧にである。
「興覇、おまえ伯符将軍を一度拝んでみたかったと言っとっただろう」
 呂蒙の言葉に、甘寧がうんと生返事をして呂蒙と同じ方向を見た。
 視線の先には本営がある。
「先将軍てのは、ああいう人だった」
 要領を得ないような呂蒙の言葉に、甘寧はもう一度生返事をするしかなかった。


江陵晩暁9へ続く

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