江陵晩暁
あの男の何がよかったんですという老李の言葉に、魯肅はさあねとつぶやく。
なにもしなかった
誰から見てもあの男はそういう評価をされているに違いない。
もちろんあの男とは劉備のことである。
得体が知れない男だと周瑜に思われている劉備という男に、魯肅は周瑜とは違う感想を持っていた。
なにもしなかった
魯肅が一番、劉備という男に望んだ行動だった。
期待通り何もしなかった劉備に、魯肅は感謝をしたかったくらいだ。
ふうとため息をついて魯肅は白濁した酒を喉に流す。
戦場で周瑜に聞かれたことがあった。
一体なぜあの男を連れてきたのかと。
あの男の何があんたを動かすんだと聞かれた。
あんたに誘われてなきゃ、あの男のところへ行くのもよかったかもしれんと魯肅は内心で周瑜に答えた。
実際には魯肅はこう言っただけだった。
「それは、子瑜の弟に聞いたほうがよかろうな」
酒を傾けて遊びながら子瑜の弟とつぶやいて、魯肅はふんと一息つく。
魯肅と諸葛瑾はよい友人だが、その弟とは馴れ合ったつもりはなかった。
やはり子瑜の方が気が合う
魯肅がぽつりとつぶやく。
戦略家としては弟の方が上かもしれないが、子瑜という男には弟は敵わんな
独り言をぶつぶつと言いながら、魯肅はまた酒を傾ける。
周瑜からは、劉備が後ろを取って曹仁に攻撃を仕掛けることになるという信が届いてきていた。
劉備など要らないと言っていたのがどうしたものかと、魯肅は周瑜の方向転換に呆れたようなほっとしたようなため息をついた。
仕掛けるぞ
周瑜の言葉に呂蒙がにいっと笑う。
「そう来なくては興覇を助けてきた甲斐がありませんやな」
呂蒙の言いぐさに甘寧が苦笑する。
「エイ、ヅゥミン(おい、子明)俺がいてよかったと素直に言えないのか」
冗談を言う甘寧の脇腹を呂蒙が足で蹴るまねをする。
凌統がクソオヤジクソオヤジと甘寧にむかって舌を出して見せた。そのとたんに呂蒙のげんこつが凌統を直撃する。
「十日持たせるのがやっとのお子様が粋がるんじゃねえ」
程普が疲れたように首をすくめた。
お子様どものお守も楽じゃないと言わんばかりの程普に、周瑜が苦笑しながら呆れないでくださいと一言かける。
「士気が上がっている間にどうにか攻め落としたいのはお分かりいただけますでしょう」
周瑜の言葉に程普がうなずく。
呉軍の指揮は呂蒙、甘寧の帰還で高揚している。
それもそのはずである。
彼らの手土産は敵の首級でこそなかったものの、300匹もの馬である。
騎馬兵が300騎増えれば、相当の兵力になる。
都からの報では、孫権が九江郡へと自ら兵を率いて出兵したということである。
合肥攻めの責任者は張昭が務めるという下りに、程普はあからさまに渋い顔を周瑜に向けたのである。
渋面でその報告を聞いたのは何も程普だけではない。
周瑜も首をかしげ、呂蒙も頭を掻き、甘寧は大丈夫なのかねとつぶやいた。
もっとも凌統が平気かなと心配の一言を漏らした瞬間、呂蒙が一言つぶやいた。
「安心しろ、張子布が文官だとは言え主公はおまえよりも余程従軍経験は豊富だ」
しかしよりにもよって九江攻めに反戦派の急先鋒を据えるとはなかなかに策士ではないかと周瑜は満足げに言う。
張子布がこれで戦う気になってくれればよいが
その場の空気が反戦派の減少を願った。
南からの攻撃は周瑜が指揮をとる。
北には今ごろ劉備と呉軍の一部が回りこんでいるはずである。
せーいおう!せいおう!という掛け声にあわせてドオンッという鈍い音が何度も空気を振るわせた。
その後ろでは弓弩部隊が城壁の上にいる兵士めがけて矢をつがえる。
撃てという号令がかかると、矢は一斉に放たれ、城壁の上から兵士が何人か鮮血と共に落ちてくる。
それでも城壁の上にいる兵士に比べ、下にいる呉軍の兵士の方が無防備であることは確かのようである。
「怯むんじゃねえ!てめえら生きて帰るんだろうがあっ!」
甘寧の檄が飛び、呂蒙が負けじと声を張り上げた。
「ここを落としゃあ、しばらくは遊ばせてもらえるぞ!郷のカアちゃんにいいもん食わせてやろうぜ、なあ!」
褒美がかかれば人間は強い。
しかし呂蒙らしいといえば呂蒙らしい毎度の檄に、呂蒙配下の兵士は苦笑した。
弓弩隊が続けて弓をつがえ、放つ。
小梁は弓弩隊よりも城壁側で城門破壊工作の一端を担っていた。
ずっしりとした丸太を幾度も城壁に当てるものの、城壁自体はそれほどヤワではない。
ついては跳ねかえりという動作を丸太は繰り返す。
ふいに内側から開かれた城門が、重い音で外側にいる小梁たちを威嚇した。
最前列の兵士が叫ぶ。
ウェイジュィンチュゥライラ!(魏軍だ!)
これが徴兵された兵士ばかりの歩兵軍であれば、この時点でばらばらに統率がきかなくなるはずであった。それが曹仁の狙いでもある。
最前列で肉体労働をしている歩兵はすぐに蹴散らすことができるとたかをくくっていたのである。
だが案に相違して、呉軍が赤壁に従軍させているのは並外れた統率力で曹操を感嘆させた東呉水軍の精鋭たちである。曹仁も上から眺めていてそれはわかっていたはずであったのだが、しかし歩兵ぐらいは騎兵で蹴散らせると思っていたのだろうか。
他の兵士たちが腰を落として剣を構える。
小梁も腰の剣を鞘から抜き放つ。
魏呉兵士の抜き払った白刃が空にきらめき、金属音がひとつ大きく鳴った。
それがかわきりとなった。
一斉に金属音が響き始め、呉軍の兵士たちは城内から出てきた騎兵隊の馬の脚をめがけて剣を振るう。
馬のいななきが派手に響き、激痛に襲われた兵士の悲鳴があちこちにこだましている。
騎兵と歩兵では明らかに歩兵が不利である。
倍の高さから振ってくる剣は、思いきり盾をかざすほかによける方法がない。
だめだ
小梁が盾をかざしきる前に、魏軍の騎兵の剣が肩を掠める。
将軍であればいざ知らず、一般の兵士の鎧などではどこまで剣を防ぎきることができると言ったところで、たかが知れていた。
剣が掠めた右肩からは鮮血がほとばしる。
「ウォブゥガンスゥ(我不敢死:死ぬものか)!」
喚声の中で叫び、小梁は右腕をなぎ払うと眼前の馬の脚を切りつけた。
痛みと驚きに棒立ちになって暴れる馬から、男が落ちてくる。
男の首を引っつかみ、小梁は自分の剣を男につきつけた。
押しつぶされたような声で男がうめき、返り血がはねる。
はじめて従軍したときには吐き気を催し、一晩中吐いていたのが、いつの間に平気で人を切るようになったのか、小梁は考えはしなかった。
従軍する以上は考えてはいけない命題であった。
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