水に映る燈篭の光が美しく揺れる。
 南は、到るところに水の流れがある。
 知らず、足取りが軽くなる。
 陸遜はほうとため息をついた。
 孫軍は孫権の代になって、地方の名士を誰問わず集めていると聞き、孫権の元へと足を運んだのは数年前のことだ。
 そうして孫軍の幕下に入って以来、南の反乱をいくらも鎮圧してきた。
 いつものことだが、こうして故郷に帰るときにはそれなりの誇らしさを感じる。
 江南は才子佳人の多い土地と言われる。
 南特有の低い音のゆったりとした笛の音がそこかしこから聞こえてくる。
 喧嘩をする声。
 酒を酌み交わしながら笑う声。
 橋の上では男たちが喧嘩を見ながら野次を飛ばしている。
 帰ってきたなと陸遜は思う。
 陸の旦那がお帰りだと叫ぶ声が橋の上から聞こえる。
 橋の欄干によじ登るようにして船のほうを見下ろしてくる少年、欄干から身を乗り出している男、落ちそうになった別の男が後ろを向いて押すなとわめいている。
 陸老爺のお帰りだ!
 男たちの声に、妓女たちも混じって顔を出してくる。
 あるものは裏玄関のほうに出てきて川のほとりで手を振っている。
 陸遜は拱手をしてその手を四方に向けて挨拶をする。
「謝、大家、謝!」
 陸遜の声に老百姓がわっと声を上げる。
 川縁の妓楼から女たちが嬌声を上げ、陸遜は少しばかり口元をほころばせた。
 女にもてて悪い気はしない。
 横で小李と呼んでいる青年が陸遜をつついた。
「老爺、窓辺に座ってこちらを見下ろしている女、あの女きれいですねえ」
 鼻の下を伸ばすように女の方を見上げている小李の腹を軽くひじでつつき、ああいうのが好みかと陸遜は声を潜めて小李をからかう。
 その陸遜に、自分だってまんざらでもないくせにと小李は笑った。
 わき腹をつつかれて、陸遜は反対側の妓楼を見やって小李をつつく。
「あっちの方が若そうだ」
 陸遜の言葉に小李は首を振る。
「まだ少女です。老爺は純情な女の子がお好みでしたか」
 小李に言われて、陸遜はわざと腕を組んでふんと鼻を鳴らして見せ、それから小李の腰に手を回して橋のたもとを指差す。
「あれ美人だと思わないか」
 陸遜にくっつかれた小李は一度陸遜の顔をちらりと見て、それから陸遜の目の見ているほうを見た。
「ありゃうちのばあさんじゃないですか!」
 一言叫んで陸遜に怒ったような顔を向ける小李からぱっと離れて船べりに駆け寄り、陸遜はけらけらと笑う。
「失礼了(失礼しました)!」
 おどけたように言って拱手して見せる陸遜に、小李もけらけらと笑いだした。
 反乱を征圧して、故郷に錦を飾るときというのが、陸遜は好きである。
 平和な蘇州の様子を眺めることができるからだ。
 船着場にいる美人を見て、陸遜は一瞬呆けた。
 蘇州は一族の故郷だが、しかしこの蘇州でもこれほど色の白い美人を見たのは初めてではないかと陸遜は目を疑った。
 小李も横で呆けている。
 女の横で座り込んで談笑している男を見て陸遜は合点がいった。
「周将軍!」
 立膝で船着場に座り込んで女と話していた男は、陸遜の声を聞きとめたのだろう、陸遜の方を見てたちあがると、拱手している陸遜に拱手を返した。
 船着場で、船頭が舫をつなぐのももどかしく陸遜は船から飛び降りた。
 駆け寄る陸遜に周瑜はははと笑う。
「公瑾兄、老弟一拝!」
 拱手した手を高くかざして膝をつく陸遜を抱え上げるようにして立たせ、周瑜はかしこまらずにと声をかけた。
「なに、近くに邸があるから久方ぶりに顔でも見てやろうかと思っただけだ。うちの妻が義弟のお気に入りを見てみたいと言い出しよってな」
 陸遜の腰に手を回して押しやるように船着場の石階段を上がり、周瑜は後ろからついてくる妻の方を小さくあごでしゃくった。
 お気に入りと言われて陸遜はどこかしらくすぐったいようなものを感じた。
 このとき陸遜は気づいていなかったのだが、周瑜の妻の脇で十に満たない少女が陸遜を見上げていた。
 いや、気づいていたのかもしれないが、周瑜の娘かという程度の認識で終わらせていたのだろう。

 どうだねと夫に言われて小喬はため息をついた。
「いい男であることは認めましょう」
 あきれたように言う妻に、周瑜は妻から目をそらして首をすくめた。
 この妻を言いくるめることなどはなからあきらめている周瑜である。
 それでも一縷の望みをかけて、周瑜は妻の前に身を乗り出した。
「ほれ、ただいい男だと言うでもなかろう。二十五になったかならんかという年だぞ。それでいて今度は華亭侯に封じようと仲謀弟も言っているんだ。悪くはないだろう。それに呉県の陸家といったらこのあたりではとりもなおさず名家の子息だ」
 夫から身をそらすようにして反対を向いて、小喬は茶をすする。
 その妻を追いかけるようにして妻の椅子の前に身をかがめ、周瑜は続ける。
「才能もそれなりにあるし、それにほら、仲謀弟も相当目をかけているんだ」
 「相当」というところに力を入れて言い、周瑜は妻を上目遣いに見やる。
「だめかねえ」
 いきなり気弱な小声になった夫に、小喬はぱしゃっと茶をかけた。
 前髪から落ちる水滴を指で絞りながら、周瑜は息をついた。
 この妻は、女を政略結婚に使うのを何より嫌う人種である。
「老公、私に聞くのではなくて、阿珪に聞いてごらんなさいな。阿珪が伯言殿に嫁いでもいいと承諾したら私何も文句は言いませんから」
 妻のふてくされた言葉に、周瑜はエイと息をつく。
「だから、阿珪にも聞くとしてだな、阿珪が承諾しても義姉殿が納得してくれなければ嫁には出せんだろうが。だから、義姉殿をどうにかして口説き落とせないかと…」
 言い終わる前に妻のふんっという声が聞こえて周瑜は自分の膝を拳で打った。
 茶で濡れた前髪を掻き揚げて、周瑜はエイともう一度ため息をついた。

 孫権の前に出た陸遜は怪訝な目で孫権を見上げてしまった。
「先将軍の小姐を、私の妻にですか」
 慢着(待ってくれ)と陸遜は内心で突っ込んだ。
 先将軍といえば、陸一族にしてみれば仇がないとは言えない男である。
 それはともかくとして、付け加えれば先将軍と先日呉県で自分を出迎えてくれた周瑜とは同じ年の幼馴染であった。
 この周瑜と先将軍は同じ年に姉妹を分かって娶っており、ということはその娘が周瑜の息子娘と同じぐらいの年にしかならないということは目に見えている。
 ならばその少女は大きくても十になるかならないかぐらいの年齢である。
 帰った陸遜からその話を聞いて、小李は笑い転げた。
「笑什マァ(何がおかしい)!」
 陸遜は笑う小李を見てふんとふてくされて窓辺に頬杖をついた。
 小李はまだ喉を振るわせながら陸遜の横に座り込んだ。
「だって老爺、いいじゃないですか、老爺は若い少女がお好みでしたでしょう」
 小李の言葉に陸遜はへっと唾棄する振りをして見せる。
「いくらなんでも若すぎだ」
 陸遜の言葉に、小李はくっくっくと笑いをこらえた。
 こりゃ本家に嫡男が生まれるのは相当先だな
 あきれて小李は首をすくめた。
「明日会えとさ」
 陸遜のどこか拗ねたような小声に、小李はいいじゃないですかとつぶやいて首を振った。
「主上からじきじきに嫁を取れと言われるということは、老爺が軍内でも重要視されているということです。お嘆きなさいますな」
 慰める小李に、陸遜はそうだなと膝を抱えて上目遣いに小李を見上げた。

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