また戦ですか
少女の声に、陸遜はうなずいた。
戦は嫌いですと少女が言う。
以前よりも背も伸びて女らしくふっくらとした少女は、気丈そうな目を陸遜に向けてくる。
この少女を、老婆(妻:日本語で言う「おまえ」ぐらいの意味)と呼んだことはまだない。
そう呼ぶにはまだこの妻は幼すぎると陸遜は思っている。
それと声をかけて、妻を子供のように抱き上げて陸遜は抱き着いてくる妻の背中を軽くとんとんと叩いた。
「阿珪、私は帰ってくるから安心おしね」
子供をなだめるように言う陸遜に、阿珪と呼ばれた妻はぷっと頬を膨らませた。
「相公はいつも私を子供扱いにするのだから」
耳元でふくれる妻にははと苦笑して陸遜はもう一度妻を抱えなおした。
「まだ子供だよ、もう何年かすればいい女になるだろうが」
陸遜の言い方に、孫珪は陸遜の背中をばしばしと叩く。
「なによお、いい女を目の前にしてるくせに」
今度は孫珪の言い方に陸遜がぱっと手を離し、孫珪は陸遜の首に慌ててすがりついた。
へへんと笑う陸遜に、孫珪はすがりついたままでむうっとしている。
「はいはい、降りて降りて、これからまだ鎧を整えたりしなくてはならないからね」
陸遜に無理やり降ろされて拗ねながら、孫珪は後ろで手を組んで陸遜が鎧を引きずり出すのをのぞきこんだ。
「いつも思うけど、重そう」
鎧をしまい込んである箱の横にしゃがみこんで言う孫珪をちらと見やり、陸遜はそりゃねとうなずいた。
「周の叔父様も戦に行くのかしら」
独り言のように言う孫珪に、陸遜は鎧の手入れをしながらまたそりゃ行くんだろうなあとうなずく。
「仲謀叔父様も行くかしら」
この独り言には陸遜はあきれたように孫珪をのぞきこんだ。
「仲謀叔父様は行かない。仲謀叔父様が自分でかってに戦に行ってしまったら私が困る」
鎧を収めていた箱に手をついて自分をのぞきこんでくる陸遜に目を上げて、孫珪はそうなの?と聞き返した。
聞いてくる孫珪に大きくうなずいて見せ、陸遜はほらほらと孫珪をどかして鎧の箱を家人にしまわせた。
そうして家人や部曲の兵士にあれやこれやと指示を出す陸遜を眺め、孫珪は腰に手をあててふんっと言って見せる。
どうしたのかと後ろを振り向いて仁王立ちになっている妻を見つけ、陸遜は首をかしげた。
「あたし好きと嫌いに中間がないの」
この娘はいきなり何を言い出すんだと陸遜はあんぐりと口をあけてしまった。
「好きと嫌いの中間がないなら私と同じだ」
少しの間ぽかんとして、うなずきながら言葉を返した陸遜に孫珪はだからねと続けた。
「死んできたら許さないから」
怒ったように言う孫珪に、陸遜は今度こそ呆けてしまった。
これから戦に行くときに夫に向かって言う言葉がそれかね
思い至って陸遜は吹き出してしまった。
「やはり子供だね」
はははと豪笑する陸遜を眺めて、孫珪はふんっとそっぽを向く。
「戦に行くときに死んでこようなんて言う男がどこにいるんだよ。私だって戦にいくときには自分で言うさ。死んでやるもんかーってね」
バカ笑いしながら言う陸遜に、孫珪はうつむき加減で恨めしそうに陸遜を見上げた。
「それでも死ぬ人は死んでしまうのでしょ」
恨めしそうに言う孫珪に、陸遜は当然だなとうなずいた。
「どれもこれも、自分の運だね。運が悪けりゃ矢があたっただけでも死ぬし、運がよけりゃ切られても生きてる」
平然と言う陸遜に向かって孫珪はあんたなんかきっと運が悪いんだからと舌を出して見せ、陸遜は思わず首をすくめた。長江で曹操軍を討って勢いをつけた呉軍は軍を柴桑に向けて帰還してきた。
陸遜の話を聞いて、船を並べていた孫賁はげらげらと笑った。
「さすがに表哥と大喬姐の娘だなあ、一五歳にもならんうちからそれでは、後が怖いぞ」
孫賁の言葉に冗談じゃありませんよと陸遜は反論した。
「これ以上手がつけられなくなったらどうしろって言うんですか」
酒を注ぎながら上目遣いで言う陸遜に孫賁は、それだなと耳杯を上げてうなずいた。
「安心しろ、女というのは年頃になれば変わるものだと言うぞ。ほれ、おまえさんの細君はまだ子供じゃないか、これから女らしくなれば変わるもんだ」
孫賁の無責任な言葉に陸遜はため息をついた。
「伯陽兄、本当にそう思いますか。先将軍と喬夫人の娘ですよ、ご自分の表哥とその奥方です。どういう性格で生まれてきたか、予想がつくんじゃないですか」
陸遜の言葉に孫賁はうむと唸った。
向こう見ずで無鉄砲な表哥(従兄、はとこ)とその表哥が恐れた夫人の娘。
考えて孫賁はつくづくそれを下賜されたのが自分ではなくてよかったと、自分の姓が孫であることに感謝してしまった。
孫賁の言葉を反芻しながら、そう変わるものかねえと思いながら、帰途についた陸遜は邸に戻って唖然とした。
薄く化粧を施してかんざしを髪に下げた少女がお帰りなさいませと腰を下げている。
「孫小姐ですよ」
若い家人につつかれて、陸遜は何か不自然なものでも見つけたように少女を見つめてしまった。
変わるものだとは言われたが、戦に行っている半年の間にこれだけ変わるものだろうか
怪訝そうに自分を眺める陸遜に、うつむいたままで孫珪はもう一度腰を落としてどうかなさいましたかと陸遜に声をかけた。
陸遜が小李と声をかけた。
小李がはと横に出る。
「私は奇妙な夢を見ているようだが」
言われて小李は夢ではないでしょうと陸遜に返し、思いきり陸遜の耳をひねった。
「いていていて!わかった!わかった!夢じゃないんだな、わかった!」
小李にひねられた耳をさすりながら陸遜は孫珪の方を見た。
孫珪に向かってにこりと微笑み、陸遜は小李の方に向き直った。
「おまえどう思う、阿珪はなにかの病気にでもなったんじゃないだろうな」
陸遜に聞かれて、そんなことはご自分でお確かめくださいと小李は小声で陸遜に返す。
「相公、お疲れでしょう」
横に来た孫珪に見上げられて、陸遜は思わず小李に寄り添うようにしてへばりつき、なんとか笑顔を作ってうなずく。
「もう遅いから阿珪、おまえも休んできたらどうかな」
陸遜に言われて孫珪ははいと殊勝な返事をして侍女と自室に戻っていった。
これは新手の嫌がらせかと陸遜は頬をさする。
「小李、殊勝な阿珪ほど不気味なものはないと私は今日はじめて知った」
陸遜の言葉に、小李は吹き出した。
化けの皮をはいでやろう
ふむと唸って陸遜は後ろから足音を忍ばせて孫珪の背中を指でするりとなぞる。
以前こうして驚かせたときには思いきり罵声が飛んできたものだ。
「ちょっとなにするの!」
孫珪の大声にやったと陸遜が口角を上げたのもつかの間、振りかえって陸遜の姿を確認したとたんに孫珪は慌てて口元を押さえて笑顔を作り上げた。
「相公…」
うつむき加減に上目遣いで自分を見上げて下し髪をいじる孫珪に、陸遜はこれは本格的になにかの病気にでもなったらしいと内心で一歩退いてしまった。
「風邪でもひいたか」
聞いてくる陸遜に、孫珪はぽかんと陸遜を見上げてふんっと後ろを向いた。
「侍女に言われた通りに女らしくして見せたのに、なによバカ伯言、ボケ」
怪不得(なるほど)、出征前に私が子供だの何だのと言ったからそれを根にもっていたわけか
納得して陸遜は小さくため息をついて苦笑した。
「ニィ給我聴バ(聞いておくれよ)」
後ろから孫珪の肩に手を置いて庭の方へ向け、陸遜は軽く孫珪を抱きしめる。
「子供だのと言ったのはバカにしたわけではなくて、ためらいがなくていいと思っただけだ」
池の方を眺めながら言う陸遜を見上げて孫珪はふうんとつぶやいた。
しばらく、水の音と風の音だけが庭を満たした。
口を開いたのは孫珪だった。
「あたし後悔してないの」
ふうんと陸遜は自分よりもまだ頭一つ半も背の小さな孫珪の頭越しに庭を眺めながらうなずく。
「初めて相公を見たときに周の叔父様はね、嫌なら嫌だと仲謀叔父様に言いなさいって言ってくれたの」
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