孫珪に言われた言葉で陸遜は周瑜が自分で馬頭まで迎えに出てきたときのことを思い出した。
 謀られたわけか
 陸遜は思わずがっくりと肩を落としたが、孫珪はそんな陸遜にはかまわずに言葉を続ける。
「いい叔父さんみたいと思ったの」
 この言葉でまた陸遜はがっくりとうなだれた。
「いい叔父さんが旦那さんになっちゃったわけか、ごめんねえ」
 せめてお兄さんにしてほしかったと陸遜はため息をつき、その陸遜の頭の下でやはり庭を眺めながら孫珪は首を振った。
「でもね、後悔してないの。あたし好きと嫌いに中間がないでしょ、で、相公は好きなの。だから相公が帰ってくるとうれしいのよ」
 ふうんと陸遜はうなずいた。
「でも侍女は、あたしの好きは子供の言う好きだと言うの。相公もあたしを子供だと言うでしょ、大人の好きってあたしの好きとどう違うのかわからなかったの」
 大人の好きねえとつぶやいて陸遜は空の方を見上げた。
 多分それは私もよくわからないと言って返した陸遜を、孫珪は意外そうに見上げた。
「相公もよくわからないの?」
 孫珪に聞かれて陸遜は、恥ずかしながらとうなずく。
「あたしね、わからないから侍女に聞いたの」
 この言葉を聞いた瞬間、陸遜は何も知らないとは恐ろしいことだともう一度空の方を見上げた。
 あきれながら。
「侍女が言うには、大人が本当に好きなときには、男の人と寝てもいいと思うし、一緒に寝るとうれしいというの」
 ああと陸遜はうなだれた。
 なにか勘違いしている。
 陸遜のため息は当然のものだろう。
「でもこれって子供でもおんなじでしょ、あたし相公の隣で寝るの好きよ。でも侍女は違うと言うの」
 これは本当に、小李の言うとおり陸家の跡取が生まれるのは遠い未来のことのようだと陸遜は首を振った。
「で、侍女に聞いたら、女らしくしていれば相公が大人の好きがどんなものか教えてくれると言ったのよ。だから侍女に言われた通りにしてみたの」
 陸遜はげんなりした。
 どんなものかも女らしくもあったもんじゃない。
 いくら年若い女が好きだからといっても今のところ孫珪はまだ一五歳にもなっていないぐらいである。いくらなんでもそんな「女の子」に手を出そうと思うほど病んでもいないし、女に不自由もしていない。
「もう少し大人になったらわかると思うよ」
 それだけ言って、陸遜は孫珪を部屋に返して小李を呼んだ。
 太難過也(そりゃ大変ですね)!
 妓楼に連れ立ってきて陸遜の話を聞いた小李が大笑いし、女がまあと口元を押さえた。
 帰って早々に妓楼に足を延ばすというのも妻のある男としては噴飯ものなのだろうが、しかしこの場合陸遜はそれしか思いつかなかった。
 陸遜も宦官ではないからだ。
「あと二、三年の辛抱ですかね」
 小李の言葉に陸遜はへいっと口を尖らせた。
「かわいらしい奥様でいらっしゃいますね」
 妓女のこの言葉には陸遜はまあなと辟易したように言いかえした。
 孫珪のことは、憎くもなければ嫌いでもない。しかし今のところは妹のようだとしか思えない。
 もう二、三年もすればそうでもなくなるのだろうかと陸遜は肴をつまみながら頬杖をついた。

 また戦
 振り続く雨に飽き飽きしたときのように、孫珪は陸遜を眺めた。
「もーちょっと自分の妻を可愛がってやろうとか思わないわけ?」
 孫珪に言われて陸遜は孫珪の前に身を乗り出した。
「阿珪、これが私のお仕事なの。わかる?」
 そのぐらいわかりますと後ろを向いて孫珪はふてくされた。
 わかるけれど、と口を濁す孫珪に陸遜は首をかしげる。
「あたし戦なんて嫌いっ!戦をする人も嫌いっ!母さまはいつも言うのよ、戦で人をたーくさんたくさん殺すといけない人だって言って閻魔さまがその人の寿命を縮めてしまうのよって。だから父さまも早く死んでしまったのだって!」
 陸遜はあっけに取られて妻をまじまじと見てしまった。
 前よりも少し物分りがよくなったと思ったら、また逆戻りだ
 でもねえと言い返す陸遜も負ける気はない。
「戦をしなきゃ自分の国がなくなってしまうことだってあるでしょ、阿珪は父さまはいけない人だから早く死んだと思うの?」
 陸遜に言われて孫珪はむうと頬を膨らませる。
「父さまがいけない人だなんて母さまは言わないけど…でも父さまは人をたくさん殺したのでしょ、母さまは、父さまを偉い人だったとか、強い人だったとは言うけれど、一度もいい人だと言ったことはないの。だから、相公にはいい人でいてほしいの」
 難しい注文だ
 陸遜は頭を掻くほかにはなかった。
 いい人といけない人か、まあ確かに私が先将軍をいい人だと言うことはできないのだけれども、しかしこの時代に戦をするなと言われても困るな
 腕を組んで黙りこくってしまった陸遜に、孫珪は最後の駄目押しをした。
「戦だ戦だって言って、運が悪かったら今度こそホントに死んじゃうんだから」
 ため息をついて陸遜は小さな妻を抱きかかえて庭に出る。
「私は死なないよ、運がいいんだから」
 陸遜の首に腕を回して陸遜の両腕に座るようにして庭を見下ろしながら孫珪は首を振った。
 相公は、いつもこんな高いところから庭を見ているのかしら?
 陸遜にすがりついて同じ目線で庭を見下ろすと、孫珪がいつも見ている庭とは違う庭が見えたような気がした。
 それじゃあ、相公はいつもあたしとは違うものを見ているのかしら?
 孫珪が黙りこくってしまうと、逆に心配になるのが陸遜である。
「そりゃ、おまえの言う通り、もしかしたら本当に運が悪くて、矢に当たってしまうことがあるかもしれないけどもさ、運だけは本当にいいんだぜ、これで」
 夫の言葉に耳を傾けて、ふいに孫珪は陸遜に抱き着いている腕をきつくした。
 運が悪けりゃ私は阿珪の旦那にはなれなかっただろうよ
 思っては見たものの、却って陸遜はそれを口には出そうと思えない。
 相公は父さまと同じものを見ているのかしら?
 戦だ戦だと言ってははしゃぐ様子は、まるで子供のようだったけれどといつか母が言ったのを思い出して孫珪は考え込み、それから首をかしげた。
「男の人って馬鹿みたい」
 孫珪の言葉に陸遜は足を止めた。
「うーん、ひょっとしたらバカかもしれないが、でもバカやってるから楽しいってこともあるかもよ」
 背中を叩かれて陸遜は妻の背中を叩き返す。
「相公には戦が楽しいことなの?あたしは戦は怖いものだと思うのに」
 考え込む陸遜に、孫珪は絶対帰ってきてねとささやいた。
 帰ってくるに決まってるでしょとささやき返す陸遜に、孫珪はもたれかかった。
 それからよいしょと庭に下りて池の脇に走りより、孫珪は陸遜を手招きする。
「見て見て、鴛鴦がいるの!」
 呼ばれて陸遜は、そういえば鴛鴦というのは仲のよい夫婦だっけと微笑んだ。
 寄り添って池の岩陰で眠る鴛鴦に、陸遜はもう一度ゆっくりと微笑む。
「ちょっとかがんで」
 孫珪に言われるままに陸遜はかがんで見せる。
 てっきり岩陰に他に何かがあるのだと思ったのだが、何が見えるわけでもなく陸遜は首をかしげた。
「何もないようだが」
 つぶやく陸遜の頬に、孫珪が軽く口付けをする。
 驚いて孫珪を見てしまった陸遜に、孫珪は小走りに橋を渡って陸遜に叫んだ。
「さっき思い出したの!父さまが戦に行くときにね、母さまに、お守りをちょうだいっていつも言ってたのですって、だからあたしも、相公にお守りあげるの!」
 孫珪の声に、陸遜は自分の頬を軽く指で触れる。
「不意打ちだ」
 小さくつぶやいた陸遜の声は、池の橋を渡っていってしまった孫珪には聞こえないだろう。
 このお守りは、結構効きそうだ
 陸遜は、孫珪の唇が触れた頬を指でいくらかなぞってから、その指に目を落として眺める。
 その夜、牀にもぐりこんで寝返りをうちながら陸遜は布団を被りこんだ。
 いつまでも子供じゃないよなあ、阿珪だって。この戦が終わったら、もう少し大人になるだろうか?
 月明かりが隣で寝息を立てている孫珪の頬を白く照らしていた。

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