それで眠れずに、こんな時間に私がたたき起こされたんですかと小李に聞かれて陸遜はふんと顔をそむけた。
 ふてくされる陸遜に、小李はくっくっと笑う。
「なにが可笑しい」
 ぶっきらぼうに聞く陸遜に、小李は酒を注ぎながら笑いをこらえて首を振った。
「大事にしてらっしゃるんですねえ、結構」
 小李の言い方がどこか自分をからかっているようで、陸遜は首を振った。
 杯を干す陸遜に、小李がまた口を開く。
「いいじゃないですか、奥方を大事になさるのはよろしいことですよ。陸家の名にしおう当主におなりではないですか」
 ぴんと背を伸ばして言う小李に、陸遜はうんとうなずいては見せたものの、どこか上の空で杯を下ろした。
 色鬼(色狂い)
 そんな言葉が脳裏に浮かんで、陸遜は慌てて手を振ってその言葉を払った。
「もうすぐまた戦で緊張するのですから、今のうちに後継ぎぐらい考えておいて下さってもよろしいと思いますがね」
 何気ない小李の一言に陸遜はため息をつかされた。
 このところ皆二言目には長子長子と、母上にも言われ、乳母にも言われ、管家の老李に言われその息子の小李にも言われ、これでは私が後継ぎを作るためにいるみたいじゃないか
 黙りこくってしまった陸遜を眺めながら、小李は頭を掻いた。
 今の老爺にこの言葉は禁句だった
 憮然とする陸遜に、首をすくめて小李はすみませんと謝った。
 それを耳に聞きとめて、陸遜は慌てていやと答えた。
「確かに、戦に行くからにはもしかしたら死んでしまうかもしれないという事も考えなくてはならないのだが、ちょっとばかり耳に痛かっただけだ」
 椅子の上に丸くなるようにして髪をいじる陸遜に、小李は酒を注ぎ足し、それから自分の杯にも酒を注いで椅子に腰掛ける。
「老爺、トンヤンシってご存知ですよね」
 小李に聞かれて陸遜は、それぐらいは当然知ってると答える。
 トンヤンシとは、幼い娘を後々息子の嫁にするためにもらってくる習慣である。
 何を言い出すんだ、この幼馴染はと言わんばかりの陸遜に、小李はにやにやと笑いながら続ける。
「二十五、六の息子のトンヤンシにするためにもらってきた六歳の娘が子供を産んだって話しが奇譚にありましてね、本当にあったかどうかなんて私の知ったこっちゃありませんが、どう思います?」
 ぶっと酒を吹き出した陸遜に、小李ははははと笑った。
「そいつはどういう男だ!」
 陸遜らしい感想に、小李はもう一度はははと笑った。
「奥方さまの不意打ちは、旦那さまを落とせそうでしたか?」
 冗談混じりに聞く小李の言葉に、陸遜は頬杖をついて小さくうなずいた。
「落とすも落とせないも、もう私は網にかかってしまったらしい。お守りをもらって、浮かれている」
 呆けたままでつぶやく陸遜をまじまじと見て、小李は酒を足す。
 お守りとは、先将軍も粋なことを言ったものだ
 感心する小李は、戦に出るときには自分もその手を使って恋人からいい目を見せてもらおうと企てた。

 陸校尉
 声をかけられて陸遜は振りかえった。
「お待たせして申し訳ありません、叔父の部屋までお連れします」
 周峻の言葉に陸遜はにこりと笑って孫珪の手を取る。
 周瑜が江陵で負傷して帰ってきてから様子がかんばしくないと聞いて孫珪をつれてきたのだ。
「ねえ表哥、叔父上のご様子、そんなに悪いの?」
 また従妹に聞かれて周峻は首をすくめた。
「会えばわかるさ、もうぴんぴんしてるよ」
 隣で呆れたように言う周循の頭を周峻が小突いた。
 いきなり周瑜の情けない悲鳴が聞こえて足を止めてしまった陸遜に、周峻がお気になさらずとにこりと笑った。
 周瑜のけたたましい悲鳴など戦場では決して聞くことができない、周瑜でも情けない悲鳴を上げるのだというのは陸遜にとって新しい発見である。
「叔父上、陸校尉と阿珪がお見舞いに来ましたよ、叔母上と遊ぶのもそれぐらいにして牀にもどってくださいね」
 甥に言われて周瑜はわき腹の傷を押さえながら牀に腰掛ける。
 周瑜に寄り添った小喬が夫の頭を軽く叩いている。
「将軍、さっきの悲鳴は、なにがあったのです?」
 恐る恐る聞く陸遜に周瑜は慌てて手を振った。
「なんでもない、なんでもないんだ。気にしなくてもいい」
 苦笑しながら言う周瑜のわき腹を、周循がつつき、周瑜はまたわき腹を押さえて押し殺したようにうめいた。
「循、おまえそんなにパパをいじめなくてもいいだろうが」
 涙目で言う周瑜に、陸遜は思わず苦笑しそうになって慌てて口元を押さえた。
 叔父さまもお守り要るかしらと首を傾げる孫珪を抱き上げて、陸遜は小声で孫珪の耳にささやきかける。
「叔父さまには叔父さまのお守りがあるからいいんだよ」
 言いながら陸遜は、我ながら大人気ないと内心で自分に呆れた。
 それを眺めて周瑜は苦笑しながら隣の妻に小さくささやく。
「ほら、可愛い似合いのままごと夫婦じゃないか、だから心配する必要もないと言っただろうに。ところで、小喬は私に回復祈願のお守りをくれないの?」
 したり顔で言う夫の背中をつねって小喬はふんと他所を向いて見せた。
 周瑜の言葉に、陸遜は何かを考えるように頬に手をあてる。
 周偏将軍も“お守り”と言うんだな
 思案顔の陸遜に、周瑜は首をかしげた。
「伯言、庭を散歩しようか」
 孫珪と小喬に先を歩かせ、周瑜に肩を寄せられながら陸遜は周家邸の庭を歩く。
「お守りというのは、先将軍が言っていたと聞いたのですよ。それで、将軍がお守りと言っているのを聞いて、どちらが先に言い出したのだろうと気になったのです」
 微笑して言う陸遜に、周瑜はくすくすと笑った。
「本当はね、言い出したのは私でも伯符でもないんだ」
 きょとんとして足を止めそうになった陸遜の肩に手を回したままで、周瑜はその肩を押し出して陸遜を歩かせる。
 文台将軍が言い出したんだよとささやく周瑜に、陸遜はなるほどと苦笑した。
「孫の叔父上が戦に行くたびに呉夫人が機嫌を悪くするんだ。それでも仲のいい夫婦だったんだよねえ、いつ死ぬかもわからないじゃないと怒鳴った呉夫人に、文台の叔父上がとっさに、それじゃあ死なないようにお守りをくれ!って言って結局その日は丸く治めちまった。その後叔父上ときたら味をしめたらしいんだな」
 はははと笑いながら言う周瑜と一緒になって陸遜は笑った。
「それで、先将軍と周将軍もお守りがほしいと奥方さまにねだったわけですか」
 笑いながら言う陸遜に、子供の恋愛ごっこみたいだが、この手が驚くほど効くんだと周瑜は声を潜めて言う。
 どんなに喧嘩をしても、結局はふたり本当に好きなんだなあと陸遜は内心でうなずいた。
 大人の好きというのは、本当はそういうものなのだろうか?
 二十五も過ぎた大人がいい年をしてとは思うが、しかし陸遜は考えてしまった。
 どんな年になっても、恋愛というのは子供みたいにするものなのだろうか?それでは恋愛には大人の恋も子供の恋もないのだろうか?それとも恋をすると大人も子供のようになるのだろうか?
「山越と干戈を交えて帰ってきたら、私も将軍みたいに、もう少し大人になれるでしょうか」
 ぽつりと言う陸遜に、周瑜は正面きって陸遜の鼻をつついてニィ錯了(ハズレ)!と言う。
「私だって大人じゃないと思うよ。その証拠に今だって程将軍にはガキガキと言われるし、逆に私を子供扱いにしてくれる程将軍が結構私は好きなんだ。本当に大人になってしまったら、頼れるところがなくて息苦しくなってしまうような気がする。どこかに遊べる口実を残しておいた方が気が楽だと思うがね」
 池のはたで孫珪が手を振って陸遜を呼ぶ。
「相公来て来て!ここにも鴛鴦がいるのー!」
 楽しそうに言う孫珪に陸遜は吹き出した。
 孫珪の隣で小喬も周瑜に手招きをしている。
 夫ふたりでとんとんと軽く石山を飛び歩き、上から池をのぞきこむと確かに鴛鴦がいる。周家で飼っている鴛鴦なのだからいてあたりまえなのだが、なんの拍子か夫の方が小屋としてくくってある竹垣から外に出てしまったらしい。
 雄の鴛鴦が竹垣に沿って泳ぐと、竹垣を挟んだ隣でその妻が寄り添って一緒に泳ぐ。夫が反転して泳げば妻も反転して泳ぐ。
「飛バ飛バ(飛べ飛べ)!」
 陸遜と周瑜がしきりに声をかける。
 反対の池のほとりでは孫珪と小喬が笑っている。
 孫珪が足下の方を指差しているのを見て、足下を見下ろした陸遜も思わず笑い出して周瑜の肩を叩く。
「将軍、ネズミも来た!」
 陸遜に言われて足下をのぞきこみ、周瑜も笑い出す。
 鴛鴦の夫婦が一対竹垣のところで立ち往生している間にネズミがちゃぷちゃぷと泳いできて鴛鴦のえさをさっさと詰め込んでは泳いで帰って棲家に運んでいる。
「泳ぐのが早いなネズミ!」
 はははと笑う周瑜にうなずいて陸遜はもう一度足下をのぞきこむ。
「こりゃネズミに餌やってるようなもんですよ、将軍」
 笑いながら言う陸遜に、周瑜はふいに笑いを収めた。
「呉は、ネズミを飼っているのかもしれんな」
 そろってため息をついて陸遜と周瑜は座りこみ、必死に泳いで来ては一心に餌を頬に詰めて泳いで帰るネズミを眺めた。

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