ねずみを飼っているという周瑜の言葉に、陸遜はしばらく間をおいてから一つ息をついた。
「それでは、私は獅子についた蚤かもしれませんね」
 自分よりもいくらか背の高い周瑜のほうを見上げた陸遜に、周瑜はちらりとも目をくれようとはしなかった。
 わき腹の傷を押さえて、踵を返しただけだった。
 池の端で、陸遜は周瑜の背を眺める。
「陸家の」
 周瑜の声が陸遜に向けられた。
 つと止められた周瑜の足は、まるで陸遜を振り返りはしない。
 ただ言葉だけが陸遜に向いていた。
 陸遜も、池を眺めたまま、周瑜を振り向こうとはしなかった。
「あまり深読みをしては首を絞めるぞ」
 陸遜の背筋を、冷たいものが滑り落ちたように思えた。
 自分を伯言とは呼ばなかったことが、周瑜の意図を陸遜に冷ややかに伝えた。
 周瑜の足が一歩動き、ぱきりと落ちていた枝を折る。
 自分が踏んだ枝を拾い、周瑜は思い出したように付け加える。
「魯子敬が、お前を聡明だと言っていた」
 ありがとうございますと、陸遜は池に向かって、小さくつぶやく。
 怖い人たちだ
 くっくっと陸遜の喉から乾いた笑いが漏れるのを、孫珪は心配そうに振り返った。
 孫珪に声をかけられ、陸遜は心配そうな妻の肩に手を回した。
「何ほどのこともない、気にするな」
 夫の言葉に、小さな妻はどきりとした。
 私は一生、お前を手放すわけにはいかないのだと陸遜は内心で孫珪に言葉をかける。
 陸家の存続は、全てお前にかかっていたのだからと。

「兄の娘を娶わせよう」
 陸遜に向かってかけられた孫権の言葉を苦々しく聞いていたのは呂蒙だった。
 自分が尊敬した将軍の娘を、軍に来たばかりの男に娶わせるのかと呂蒙は鼻を鳴らした。
 彼の家は地方豪族だと聞いた。
「やはり家を気にするらしい」
 つぶやいた呂蒙を周瑜は無視した。
 陸遜は臣下受命と返すだけだった。
 縁談の話をしているとは思えないほど、席は冷え切っている。
 陸遜の様子を、魯肅はあくびをしながら眺めていた。
「ああいう男がいるのだ、陸家は順風満帆だな」
 その魯肅の呟きを、呂範はまったくだと相槌を打ちながら鼻を鳴らす。
 うらやましいだ、めでたいだのと男たちが言う中で、数人の男たちはこの縁談の意図に冷淡な目を向けていた。
 陸家の男は、本当にこの縁談を受けるかねと、魯肅は周瑜に小声でひそりと問いかける。
 受けなければそれまでだと周瑜が小声で返す。
 バカではないらしいと諸葛瑾が普段の穏やかな微笑とは少し違った笑みを見せた。
 程普が周瑜を睨んでいた。
 告辞と告げて陸遜はゆっくりと孫権の前から退出した。
 陸遜が退出した後、孫家邸の水亭で、呂範が周瑜に手を叩いて見せた。
「お見事」
 呂範の言葉に周瑜が首を振る。
「仲謀弟に言うべきだな、私が思うよりもよほど鮮やかなお手際でいらした」
 程普は椅子に座って、もう一度周瑜を睨みつけた。
「入れ知恵は君ではないのかね」
 くっくっと周瑜が笑う。
「私が裏とは、買い被っていただけたものです。はて私はそれほど権力はございませんが」
 周瑜のふざけたような言葉には、魯肅が水亭の柱にもたれた格好でいやいやと首を振った。
 ちらりと魯肅が目を向けた方向を見て、呂範がにこりと笑った。
「こちらも思ったよりたちの悪そうなお方かもしれん」
 呂範に水を向けられ、慎ましやかに座っていた諸葛瑾は苦笑する。
「私は魯子敬兄に誘われてこの席にいるだけですよ」
 魯肅がくっくっと苦笑した。
「意地の悪い笑みを浮かべておられた」
 はてと諸葛瑾は穏やかな表情で魯肅を見る。
「それ、その顔が曲者だ。いかにもという朴念仁のようでいて食えそうに無い男らしい」
 それはしたりと諸葛瑾が困ったように眉根を寄せて見せた。
 しかしと言った諸葛瑾に、魯肅はそれきたと首をすくめる。
「陸家の一族はよい当主を持ったものですね」
 諸葛瑾の一言に、呂範が面白そうな目を向けた。
「陸遜と言う男がバカであればどうであったと」
 問いかけた呂範に、諸葛瑾は微笑むだけだった。
 答えたのは魯肅である。
「バカであればあの青年は孫家には従属しませんでしょう」
 孫家にきたのだから、このぐらいは覚悟しておったでしょうと周瑜が続けた。

 話題にされている陸遜は、深く息を吸った。
 楼の上で庭を眺める兄の表情が普段とは異なっていることに、弟は眉をひそめた。
 兄上と声をかけられ、陸遜は楼の下にいる弟を見る。
「なにかございましたか」
 いやと陸遜は首を振り、楼に上がってきた弟はそうかと安堵した。
「兄上はいつも、何を考えているのやら私にはわからん」
 くすくすと陸遜は笑った。
 弟にばれるようでは、私は孫権という男を満足はさせられないだろうな
 兄の内心に浮いた言葉を、弟は知らず、笑う兄に自分も微笑した。
「うれしいことでもありましたか」
 うれしいことと陸遜は弟の言葉を反芻する。
「あると言えばある。縁談があった」
 ふいに弟の顔が曇ったのを、陸遜は見逃さない。
「何を考えた、兄に言ってみろ」
 にやにやと笑う陸遜に、弟は唇をかんで兄を見た。
 意地悪く笑ったまま、陸遜は弟の顔を見つめる。
「おまえの思ったとおりだろろうが」
 陸遜の言葉に、弟は首を振った。
「孫家の、妹ですか」
 弟に、陸遜は惜しいと言って豪快に笑った。
 娘だ
 兄の言葉に弟は絶句した。
「あの伯符の娘だ」
 欄干を、すずめが散歩している。
 柳がそよぐのも、陸家の兄弟には感じられなかった。
 まさか受けるのではないでしょうなと噛み付いた弟に、陸遜はあっさりと頷いた。
「受けねばならない。陸家の存亡が婚儀にかかっているからね」
 ちっと舌打ちする弟の前を、陸遜は無言で後にした。
 そうだ陸議、お前はこの縁談を笑顔で受けなければならない。陸家がこの地盤を保ってゆくためには、この縁談は蹴ってはならないのだ。明日の堂下では、こう言わねばならん。笑顔で、昨日のお話、ありがたくお受けいたしますと。それが私のすべきことだ
 決して不満を顔に出してはいけないと自分に言い聞かせ、陸遜は鏡にかかっていた布を払いのける。
 目を一度軽く瞑り、ゆっくりと開く。
 鏡に映る自分の笑顔に、ふいに嫌悪を感じた。

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