心配です
 孫珪に言われ、杞憂だと陸遜は言う。
「なによ、そんな風に言うと心配してあげないから」
「はいはい、阿珪に心配されなくても私は帰ってくるよ」
「もう!いっつもそんな返事ばっかり!」
 孫珪に腕をつねられ、この娘の周りの女はみんなこんななのだからと陸遜が悲鳴を上げる。
 この娘の父と母がどのような夫婦だったかは知らないが、周瑜夫妻を想像すると、その周瑜と異様に気の合う友人がこの娘の父なのだからと、どのような夫婦であったか大方の見当がつく。
 それに加え、この娘の父・孫策は陸家の仇敵だった。孫策の噂を聞くにつけ、どうも貴公子とはかけ離れた人物像ができる。
 破天荒で、わがままで、気まぐれで、止まることを知らない、凶暴でずさんな性格の持ち主。舅のこととは思えないような人物像が陸遜のなかでは作られている。身内の贔屓目もなにもあったものではない。
 それでも孫珪を妻に受け入れてこちら、孫家に対する陸家の反感は薄らいだ。もっとも裏には一族の高齢者が若者をなだめてここまできたという部分もある。
「老公!」
 考え事をするような陸遜を、孫珪が真正面から睨みつける。
 陸遜が後ろを向けば、孫珪は回り込んで陸遜の正面にくる。陸遜が左を向けば孫珪が左にきて、陸遜が右を向けば孫珪が右にくる。
 この話を孫権にしたとき、孫権は「ははは」と笑ってから真顔でこう言った。「それは母親と同じ行動だな。義姉上も兄上が戦に行くとなると同じようなことをしていた」と。
 いつの間にか女になったかな
 周瑜であれば、そういう言い方をしたかもしれない。
 周瑜のところで話しをしたのはどれぐらい前になるだろうかと陸遜は考える。一年前に周瑜が死んだのだから、周瑜に冷や水を被せられたのは二年前になるだろうか。
 二年も経てば、少女が女になるのは当たり前なのだが、陸遜にしてみれば、手放しでは喜べない部分もある。
 なにしろ今までのらりくらりとかわしてきたような質問にでも、陸遜がまじめに答えなければ怒るし、周りからは圧力をかけられる。閨をからかわれようものなら、陸遜も孫珪もたちまち気まずくなる。
 それに加えて孫珪は天真爛漫。侍女に言わせれば、陸遜が甘やかすのが原因だということになるのだが、陸遜も甘やかしてばかりいるようなつもりはない。叱るときには叱るし、怒るときには怒っていると、自分では思っている。
 しかし陸遜がふてくされているのをよそに、孫珪は自分の言いたいことを言いたい放題言うのだ。
「老公は、生きて帰ってらっしゃったからいいの。今まではね」
 このお説教が始まると長いのだ。
「父さまと、周の叔父様はもうお亡くなりだわ。母さまと叔母さまは未亡人。気楽そうだけど寂しそうなの。だから思うの。老公には長生きをして欲しいのって」
 それはありがたいことだと陸遜は返事をする。
 毎度同じ返事を陸遜が返すということに、最近孫珪は気がついたらしい。
「昨日もそう言ったの。ねえ、だから危ないことしないでって言ってるのに。それなのにまた戦。毎度言うのは、これが仕事だからね、とか、私だけが行くわけじゃないよ、とか、おじいさんになったら行かないよ、とか。それからまだあるわ、昨日言ったのは」
「わかった」
 孫珪の言葉を遮るように陸遜が口を挟む。
「わかった?」」
 孫珪の期待に満ちた声に対して、陸遜はにこりと笑ってから答える。
「その話はまた明日にしよう」
「その通り!」
 うれしそうに言う孫珪に、陸遜は頭をおさえた。
 昨日も私は「その話は明日にしよう」と言ったのか
 頭をおさえたまま嘆息すると、陸遜は苦笑して鎧を磨き始めた。聞く気のなさそうな陸遜に、孫珪はふてくされる。
「ねえ老公、もし老公が死んでしまったらどうするの?私未亡人じゃない」
 にこりと陸遜は笑う。
「私は殺しても簡単には死なないんだ。だからおまえが未亡人になることもない」
 陸遜が言うが早いか、鎧を磨いていた雑巾を奪い取って孫珪が陸遜に投げつける。思わず陸遜は目をつぶった。
 彼女の両親はどちらも気が短いからな、彼女の性格も両親に似たのだろうか

 甘寧が大笑いする。
 笑い続ける甘寧を横目で睨んで、陸遜はふんと鼻を鳴らした。
 横で孫賁も控えめに笑っている。
「ふたりともそれほど笑わんでください」
 真っ赤になってふてくされる陸遜を、さらに甘寧と孫賁でからかう。
「それでは子供なんぞまだまだ先か」
「閨にも連れ込めないとは情けない」
 けらけらと笑うふたりに、陸遜がふんっとまた鼻を鳴らすが、鼻筋に皺を寄せてしかめっ面をしてみせる表情に甘寧がまた笑い出す。
 笑いたいのをこらえて止めると、孫賁がはあと息をつく。
「しかし本当に、これでは跡取りなど先の話だな」
「それでは子供が子供を産むようなもんです」
 陸遜に言われるが、孫賁が指折り数えて眉を動かす。
「では妾は?」
 孫賁に聞かれて陸遜が真っ赤になる。
「どこに話が飛んでるんですか!」
 孫賁が甘寧と顔を見合わせて首をすくめたが、陸遜は止まらない。孫珪を嫁にもらうというのは、いわばフゥマァ(皇帝の娘婿)に近い状態で、甘寧のように比較的新しい人間にとってしてみれば、江東の豪族であった陸家・朱家の中でも陸家が破格の待遇を受けているようにもとられかねない。
 はじめは孫権のお気に入りだと陸遜を見ていた甘寧も、他の将軍たちから話しを聞いて、陸家の待遇に納得したものだ。
 いきなり妾を囲うというわけにも行かない陸遜にしてみれば、色々と考えることもある。
 陸遜を眺める甘寧の表情が笑いを抑えて奇妙な顔になった。
「老公、来ちゃった」
 孫珪の声に、陸遜が一瞬強張った。
「阿珪ー!」
 叫ぶと同時に立ち上がって陸遜は孫珪を振り返り、孫賁が手を叩いて笑い出し、甘寧がきょとんとして陸遜と孫珪を眺めた。
 孫珪の後ろで侍女が上目遣いに陸遜を眺めて、それから口元を覆った。笑いをこらえているのは確かである。
 それほどおかしい状況か
 陸遜にしてみれば、いきなり幼な妻が飛び出してきたのだから気が気ではない。
「さすがに伯符の娘だ」
 孫賁が腹を抱えるようにして笑う。
「今日はなんでここにいる」
 陸遜に聞かれ、孫珪はにこりと悪戯そうに笑って陸遜に抱きつく。
「老公、当ててみて」
 こういうときには必ず自分のことが絡んでいる。この間もそうだった。当ててみてと言われてわからないと言ったら、男の人はどういう色の着物を選んだらいいかと母さまに相談したのと言って、けなげにも翌日から陸遜の着物を縫おうと苦心したようだった。結局できあがったのは手ぬぐいだったが。
 今度も確実に嫌な予感がした。
「また手ぬぐいを縫ってくれるのかな」
 陸遜の答えに、孫珪はふふんと威張って見せる。
「老公を戦に連れて行かないでって仲謀叔父さまにお願いに来たの」
 アー?!と陸遜は思わず大声で聞き返し、慌てて周りを見回した。横で見ているのは孫賁と甘寧ぐらいなのだが、本人にとってはそれどころではない。
 落ち込んだように椅子に座り込む陸遜を見て、はじめて孫珪はなにかまずいことをしたらしいと気がついた。
「老公、私、何かした?」
 孫珪の言い方に、陸遜は手を振った。嫁は特に何も悪気があってしたわけではない。ただ、ひょっとしたら、自分の説明が足りなかったのかもしれない。
「おまえもう叔父上に頼んだのか?」
 陸遜に聞かれ、孫珪はまだ、と返事をする。
 明らかに陸遜は安堵した。
「老公、どうかした?」
 ヘィッと陸遜が孫珪を真正面から見て睨んだ。孫珪が悪戯をしたときに叱りつけるときと同じしかめ面だ。
「幸いおまえはまだ叔父上に言っていないとね!」
 陸遜に怒鳴られて孫珪は首をすくめた。
「考えてみてごらん。見てみなさい。今ここに来るひとで戦に行かないひとがいるか?それを私だけ戦に連れて行くなだって。そんなことになれば私は面子丸潰れだ!」
 孫賁と甘寧が大笑いしたのは言うまでもない。

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