孫氏三代(184/03)「広き庭園」


 いつもの夏の朝。
 私はいつもの庭園のところにいる。だけど、いつもと違って立ってる。
 昼間の暑さで引き立つのか、朝はさわやかで、すがすがしい。そう、いつもの朝だ。
 庭園は何も変わらない。木や草の青さがまぶしく輝いているし、池は涼しげだけど豊かな深みのある色を出している。
 だけど、この庭園は今日で誰のものでもなくなるらしい。私から離れるそうなんだけど、実感がわかない。でも、今、庭園をながめても、もう心に映えないことは確かなんだ。
 昨日はやりきれなくて、とても、お父さまやお母さまとお話しすることなんてできなかった。昨日から顔を何回かあわせているのに、一言も声をかけてないし、かけられてもいない。私もお父さまもお母さまも事実を知っていたんだろうけれど、少しもそれと向かい合おうとは思わなかったんだろう。
 何をしても時が過ぎていくし、何をしても何も変わらない。
 今、ようやくそう思えるようになった。だけど、そう思えただけで、何かしようとも思わない。
 ただ時が流れていく。それで、まわりが変わっていくだけ。
 私の目に、池のへりを歩いてくる子衡さんがうつっている。昨日と同じ袴摺姿だ。今、私の心に、ただ動いている子衡さんの姿がぼんやりあるだけ。
「もう、心構えはできたか?」
 動くだけだった子衡さんは立ち止まり音を出していた。私の中で単なる音が意味のある言葉になるにはしばらくかかる。そして、のろのろと口を開く。
「そんなの、わかりません。でも、それしかないんでしょ?」
 私が口にした「それ」とは庭園をすて家を後にすること。そんな胸を痛めることのはずなのに、私は何の感情も込めず一言で片付けている。
「……辛いだろうに……生まれた邑を離れるんだから……」
 子衡さんは私に目一杯、気を使っているんだろう。だけど、どこか的はずれだ。邑なんて言葉を持ち出すなんて。
「あなたに私の何がわかるっていうの? 何も知らないくせに……」
 わずかだと思っていた苛立ちが私の口からこぼれ落ちていた。自分の声を耳にすると、それは嫌なくらい、とげとげしい。
 私も子衡さんも二人とも声を出さない。妙な間があく。
 私は少し上の方も向いて、子衡さんをぼんやりと眺めていたけど、ふと気付く。子衡さんの閉口した様子、それに哀れんだ目。
 私、子衡さんを傷つけてる。私はとても嫌な人間。そう思うと、どんどん深く底のない泥沼にのめり込んでいくような感じがする。
 まだ、私にも良いところ、あるよね? まだ、やさしところ、残っているよね?
 いろんな想いが絡み合って、おかしくなってしまいそう。でも、なんとか気を外に向けようとする。
「ごめんなさい……私、おかしくなっちゃったみたいで……子衡さんは何も悪くないのに……」
 どうにか、私は声を出すことができた。知らず知らずのうちに子衡さんから目をはずして私は彼の足もとを見ている。
「俺なんか気にするな……俺が想像する以上に、君、辛そうだし……俺なんか、しばらくこの庭園が見られないのが残念なぐらいだからな……」
 子衡さんの言葉に私は、はっとして面をあげていた。「庭園」という言葉が子衡さんの口からでるなんて。
 面をあげた眼差しの先には子衡さんの顔があった。目が合ってしまう。
 子衡さんは微笑む。それはとても弱々しいし、とても頼りない。
 だけど、その瞬間、何か私の体の中にある張りつめていたものが、すっと消えてなくなるようだった。
 すごくらくだし、すごく安心した。
 そう思うと、私は再びうつむいていた。あれ? どうしたんだろ?
 今度は額と目をどこかに押しつけている。それは子衡さんの胸元だ。
 私の目から涙がどんどん流れてきている。もう、涙は止まらないし止めようとも思わない。喉から無様なひきつった声が出ているけど、かまわない。
 こうやって、ずっと子衡さんに寄りかかっていたい。
 私の背中に暖かいのが触れる。子衡さんの手だ。
 私は子衡さんの胸に顔をうずめる。それから、まだ泣きやまないでいる。
「まだ、出発しなくていい?」
 そのままで、私はつぶやいた。
「ああ、かなり早い目に君をむかえにきたから……」
 そのままで、子衡さんはささやいた。
 もう声は、かれていたけれど、静かに泣き続ける。
 子衡さんは少しも嫌な様子を見せず、ずっと私につきっきりでいてくれた。
 そのまま、ゆっくり時が流れる。
 そう、ゆっくりと。
 今、庭園の思い出が私の心に浮かびそうなものだけど、なぜか何も浮かばない。でも、今、夏の日差しを受けて生き生きとしている草木、いろんなものに命の水をささげる池など庭園のことをちゃんと感じている。私の顔は子衡さんの胸の中なのに。今まで感じたことのない素敵な感覚。
 やがて、私の庭園、さようなら、と心で伝えた。
 そのあと、ゆっくりと、私は顔を子衡さんの胸からあげる。
「ありがとう、もう大丈夫。昨日から……もしかして何年もかもしれないけど、何だか、私、無理してたみたい」
 私の顔は涙でくしゃくしゃだったけれど、子衡さんにだったら恥ずかしくなかった。何でだろう。
 子衡さんはやさしげに微笑む。
「ゆっくりしなよ。出発には、まだ間があるし……昼前までに輿馬のところへ行けばいいから……顔、なおすぐらいは充分できるし…」
 子衡さんは懐から絹の切れ端を出し、私の顔の涙をぬぐってくれた。
「ありがとう」
 それは私の胸の奥でわく喜びから自然とわき出た言葉だった。
 子衡さんは顔をほぐしながらも、私の方をまじまじと見つめている。
「これでは、いつもの綺麗な顔が涙で台無しだな」
 子衡さんの言葉で、すぐに私の顔がほてるようだった。あわてて私は子衡さんから視線をはずす。
 「綺麗」だなんて。それに「いつも」だなんて。
 私のことを綺麗なんて、お父さまのお客さまがいつも言ってたこと。でも、それは心が動くようなことじゃない。日常のありふれたこと。
 でも、子衡さんが言うと、まるで心が躍りだしそう。とてもどきどきする。
 子衡さんが……綺麗だって。
 いつの間にやら、真顔になっている子衡さんは私の顔をまだまじまじとのぞいている。
「まだ、調子わるそうだな。君の顔、赤いし」
 私の顔は子衡さんに見られることでますますほてるようだった。
 それを少し気にしつつ、私は子衡さんにあることを確かめようとしている。
「なぜ、私なんかに、ここまで優しくしてくれるんですか?」
 何の含みもない、ただ疑問を口にしただけの言葉。だから、子衡さんは答えにくかったのかもしれない。しばらく、子衡さんは目をぱちくりさせている。
「なぜって……自分をそんな卑下するものじゃないよ……」
 話ながら子衡さんは私から視線をはずし、うやむやにするように話した。それでも私は子衡さんに真っ直ぐな視線を送っている。
「ほら、あなたは知らないかもしれないですけれど、今まで私に話しかけてくる人みんな、いつもお父さまのことに気が向いているんです。私なんて、単なるお父さまの家族の一人としてか見てくれないようなんです。だけど、あなたは違います。私を私として応対してくれます……そこがとても嬉しいんです。だけど、あなたから優しくしてくれるたびに不思議に思う気持ちも少しだけど膨らんでいくんです」
 視線を外していた子衡さんだけど、言葉の途中から私を見つめ返してくれた。
 やがて、子衡さんは左腕をぴんと伸ばし、左の遠くの方を指し示した。その方角は何もなく、ただ庭園を囲む高い塀があるだけだった。そのまま、子衡さんは真っ直ぐこちらを見つめている。
「君こそ、知らないかもしれないが、あの向こう側では君のことが話されることだってあるんだ。君の姿を見た数少ない人から噂が流れてくる。『この邑の大きな屋敷の内側に美しい庭園がある。だけど、そんな庭園なんて色あせるほど、可憐な娘がいる』とね……」
 子衡さんは、はにかみながら、話していた。だけど、私は良い心地ではなかった。自分のことが知らないところで話されているなんて。
 そんな私に気づいてか、子衡さんはあわてて言葉を付け足す。
「あ、勘違いしないでくれ。そりゃ、ここに県府の仕事で初めて来たとき、俺は興味本位にその噂になっている娘を見てみようと思ってた……でも、この美しい庭園を歩いているとそんなこと、どうでもよくなっていて……ちょうどそのとき、君と会ったんだ。それから、話しているうちに、俺の中で、君はほうっておけない存在になっていたんだ……」
 子衡さんの言葉途中で、私は思わず話し出す。
「うそっ、だって、私の申し出をすぐ断ったし、それにあなたは一ヶ月もずっと私に素っ気なかった……振り向きさえもしなかったじゃないですか」
 私の中にうまれた小さな疑念は不機嫌さとともに大きくなっていた。
 子衡さんは目元に憂いを浮かべている。
「それはそのとき、俺なんかが君に関わるべきじゃないと思っていたから。だから、俺は自分の気持ちを押し殺して、君との距離を保とうとした。俺は財産なんて何もないただの一県吏だ。それにくらべて君は大金持ちのお嬢さん……俺が近くにいると迷惑だろ?」
 子衡さんのうったえかけるような眼差しを私は受けず自然とうつむいていた。
 お嬢さんだなんてひどい。子衡さんでも、私のことを全部、私として扱ってくれていたわけじゃないんだ。そう考えると、私はとても切ない気分になっていた。
 でも、もう悲しみに身を任せてなんていられなかった。今なら、子衡さんの好意がわかる気がする。
 ほんの少しの行き違いなんだから。
「迷惑だなんて、そんなことないです。私をわかってくれている人はあなただけ……私にとってもう、かけがいのない人なんです。だから、もう私を避けるのはやめて…」
 知らず知らずのうちに私は子衡さんの右手を両手でにぎり彼の目を見つめていた
 子衡さんの顔は見る見るうちに赤くなっている。
「わ、わかった……もう、避けたりしない……そ、そうだ。これから、よその土地で何が起こるか、わからない。だから、つきっきりで君を護る」
 はにかみながらも子衡さんは左手を私の両手に添えていた。
 今度は私が顔を赤らめる番だったけれど、それより先に声を出して紛らわす。
「ありがとう」
 私の言葉に子衡さんは満面の笑みで応えた。
「じゃ、そろそろ輿馬のところへ向かうぞ」
 子衡さんはそう言って、手をつないで私を連れていこうとした。
 私はそのままついていかず、立ち止まる。すぐに子衡さんは振り返る。
「どうした?……そうか、君の庭園への別れがすんでないんだな?」
 子衡さんは私の手をにぎる力をゆるめた。
 だけど、私はその手をふたたびしっかりとにぎる。
「うーうん、そうじゃないの……私が男の人と手をつないで歩いているところなんて、お父さまが見たら、どう思うかと思って」
 私はいたずらっぽく笑って、手をにぎったまま子衡さんより先に進んだ。
 子衡さんは歩きながら声をたてて笑う。
「ははっ、それなら心配ない。君の父上から言われたんだ、『手を引っ張ってでも娘を連れてきてくれ』てね」
 子衡さんは私の歩調に合わせ、再び私の手をにぎった。
 私も可笑しくなってついつい笑い声を出す。
 私と子衡さんは二人で庭園を後にしようとしていた。

続き

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