孫氏三代(184/03)「広き庭園」


 ぼんやりと明るいところだった。
 私が気付くとそこにいた。初め、またいつものように庭園の中の屋根のある台座でまどろんでしまったのかと思った。
 だけど、そうじゃない。体に揺れを感じるし、何だか閉塞感がある。光のある方へ目を向けると、夏の明るさにまぶしさを感じ、次に動く風景が見えた。
 そうだ、ここは屋根のある輿車の中で、今、前の馬に引っ張られているんだ。
 もう庭園はないんだ、そう思うとどうしようもない悔しさがこみ上げてきた。それは怒りに似た感情。でもそれがどこにもやり場のないことを感じると、次第に哀しさに包まれている。
 最悪の目覚め。
 そう、客観的に思うことで、何とか、私は自分を保っているようだ。でも、ぼんやりと外を眺める瞳からは涙がこぼれているみたい。頬が湿っぽく感じる。
 なんて無様な姿かしら。
 幸い、屋根で外から私の姿は見えないし、この輿には誰も居ない。
 細陽の邑を出て、もう丸3日は経っている。人によって違うけど、たいていの邑の人は寿春という邑を目指している。私たち家族、そして呂子衡さんもそうだ。
 寿春といったところは、細陽から行くと、県境や郡境どころか州境も越えたところにあるらしい。それに古くからある大きな邑。遠くて揺るぎない古都。だから、疎開先にはうってつけらしい。だけど、私の庭園はそこにはない。その事実を認めると、何とかごまかされていた私の切なさが再び私を包み込む。
 どうして目が覚めてしまったんだろう。
 こんな哀しい想いをするぐらいだったら、そのまま眠っていればよかった、と後悔する。
 そんなとき、輿車の揺れがゆっくりになり、やがてぴたりと止まる。何かあったのだと思い、私はいそいそと涙をぬぐい、来訪者に備える。
 外からの明るい風景を遮って誰が人がこちらを覗いている。
「ちょっと、いいかなあ」
 声を出した人影は子衡さんだった。私は彼に今までのことを悟られないように身構える。
「あの、まだ、日は高いですし、ここって邑じゃないでしょ? 宿泊地はまだ遠いと思うのですが……」
 私は何とか涙でしめった顔を外の明かりにさらさないようにしていた。
「そんなんじゃない。いいから、ちょっと外においで」
 子衡さんは私に微笑みかけた。私はその誘惑に危うくのりそうになったけど、なんとかこらえる。
「お父さまかお母さまがおっしゃったのですか?」
 私はかたくなな様子でこばんだ。
「いや、君の両親は関係ない……順調に寿春へ向かっていることだろう」
 子衡さんは私の様子に気付かずあっさりと応じた。
「でしたら、ここに何があるとおっしゃるの……」
 私が話している最中に子衡さんは口を開く。
「まあ、そんなこと言わず、出てきてくれよ」
 子衡さんは私の言葉をさえぎり、満面の笑みで誘いかけてきた。夏の明かりを背にして、彼の顔は影の中だけど、とても明るく優しげ。そんな顔を不満でよごしたくないと思って、私はもろくも要求に屈する。
 それでも私はなるべく顔を見られないようにうつむきながら、輿車から体を出そうとしていた。子衡さんはそんな私を見て、すぐに外で待っていた。
 裙(もすそ)を踏んで転ばないよう、慎重に足を台に乗せ、続いて地面へと足を入れた。踏み出した足でやわらかい地面を感じる。それに違和感を感じながら、辺りを見回そうと顔を上げる。
 私の目に、腰ぐらいの高さの青い草が一面、広がっている様子が映っていた。その草はどれも生い茂っているというよりそこに植えられているといった様子で、その根元にはどこでも水面が見えている。規則正しい緑と所々にみえる水面に反射する光。それらが、かすむぐらい遠くの方まで続いている。
「わぁ…」
 私は思わず声をあげていた。今まで生きてきた中で一番、奇妙な光景だ。
「見事な稲田だろ? 俺も初めてみたとき、今の君みたいだったよ」
 子衡さんは私の背中越しに声をかけていた。私は振り返る。
「稲田?」
 私にとって稲田どころか草のかたちの稲を見たのは初めてだった。
「まさか劉家の娘さんだからって、稲田を見たことがないんじゃないだろうね?」
 子衡さんの言ったことはまったくそのとおりだった。いつもの私だったら知っているように振る舞いそうなものだけど、不思議と素直にこくりとうなずいていた。
 子衡さんは腕を組む。
「ふーん、そういうものか。でも、このすごさはわかるだろ?」
 子衡さんは前を手のひらで大きく指し示した。その向きにはちょうど、私の後だったので、また私は振り返る。
 改めて、私は遠くまで一様に広がる稲田を眺める。
「ここ、どこですか?」
 私はため息混じりにつぶやいた。
「ここは廬江郡の……確か、陽泉県というところだ。それで、目の前の稲田の向こうに湖があって、ここら一帯は芍陂(しゃくは)と呼ばれているんだ」
 子衡さんは、私のつぶやきを聞き逃さず、答えた。
「芍陂? 陂(つつみ)ですか?」
 私は目を風景に奪われつつも、疑問に思ったことを無邪気にすぐ聞き返した。
「ああ、こうして稲田があるのも、湖から余分な水があふれ出ないように、人々がつくった陂でせき止めているからだ。その陂は百里にわたって続いているそうだ。もしかすると、だからここら辺は芍陂なんて呼ばれているかもな……」
 いつのまにか子衡さんは私の右隣に立っていた。私は眼差しを彼の方へと向ける。
「湖の水を……うまく使っているのですね」
 なんとか私は話を合わせようとしていた。子衡さんに私は自分の知的なところを見せたいのかも。
 私の目に映る子衡さんは目を細め稲田を見ている。こちらまで気分が良くなりそうな、とても心地よさそうな表情だ。
「美しい…」
 と子衡さんの一言。私は聞き違えたのかと思い、思わず聞き返す。
「美しいっておっしゃりました? この稲田のことを?」
 声を出したすぐ後に私は後悔した。どうも子衡さんを突き放すような言い方だったから。
 子衡さんはこちらを向く。そんな私に嫌な顔を見せてない。優しい表情だ。
「はは、確かに稲田を美しいなんて、変に思われるかもしれないな。だけど、俺はこういうのも別に美しいと感じるときがあるんだ……」
 子衡さんは、わかったかどうか私の表情を目で読みとっていた。私はよくわからず唖然としていた。この稲田のことを私はすごいと思うけど、美しいなんて感じない。
 子衡さんは一息つき、また話し出す。
「俺は美しいものがなぜ美しいかも気になることがある。そのなぜっていうのを突き詰めていくと、どれもその裏側に人間の素晴らしい工夫や自然の豊かな営みがあってこそなんだ……」
 子衡さんは右の手のひらを稲田の方へ向ける。
「……だから、たまには、その逆があっても良いかなって……人間の工夫や自然の営み、陂や湖がうまく絡み合っていることを知ってから、美しいと感じることがあっても」
 子衡さんが話し終わる頃に、私は稲田の方へ目を向けていた。
 子衡さんの言葉を私は心の中で何度も反芻していた。そうすると、今までと違ったようにこの稲田が見えるようになっていた。
 美しい。
 理屈抜きでそう感じている自分に驚いている。その驚きのまま、私はもう一度、右の子衡さんをまじまじと見る。
「な、綺麗だろ?」
 と、子衡さんは私に微笑みかけた。その彼の顔とまともに目が合う私。頬が暖かくなるのを感じる。
「はい」
 と、私は、はにかみながら返事した。子衡さんは満足そうにしている。
「そうか、気に入ってもらえたようだな。良かったよ…」
 そういって、子衡さんはまた稲田と面と向かった。子衡さんがなぜここに留まったのか、私は突然、気にかかりだす。私がそのことを切り出そうとする前に子衡さんは再び、話し出す。
「…今は北の方で反乱が起こっていて汚れているけど、まだ世の中には、この芍陂のように美しいことばかりだ……」
 子衡さんは目を細めていた。さっき見せた心地よさそうな表情。この人は本当に美というものを知っているんだ。
 それに比べ、私はどうだろう。眼前の壮大さにすっかり忘れかけていたけど、涙で汚れた顔と心。それに子衡さんに言われるまで、まるでこの芍陂の良さなんて感じ取れないでいた。
 そう私の心がごちゃごちゃ散らかっている時に、子衡さんは私に優しい眼差しを向ける。
「…君の庭園はとても美しかった。でも、庭園の外に、それとは別の素晴らしい美しさがあるんだ」
 子衡さんは両手を広げて、私に微笑んだ。
 そうか、子衡さんは今までこんな私に気を配ってくれていたんだ。そう気付くと、両の眼にこみ上がるものを感じ、思わず顔をうつむかせ両手で濡れた目と頬をぬぐう。
「おい、泣くことないだろ」
 子衡さんはやさしく話しかけた。
 私は顔を上げず、言葉で気持ちを伝えようとする。
「だって……とても嬉しいし…」
 その私の声で子衡さんは安心したように「そうか」とつぶやいた。
 でも、それだけだと、私の感謝の気持ちは子衡さんに伝えきれていないと思った。だから、私は流れる涙をそのままに面を上げる。
「ええ、あなたが外に連れ出して下さったのですから……それに、私はここが庭園の外だなんて思えません。ここは、ただ広い庭園です」
 私も子衡さんと同じように胸を張りだし、両手を目一杯、広げていた。ちょうど子衡さんとの間に鏡があるような姿。ただ違うところは子衡さんが破顔しているところ。
「ふふ、広き庭園とは、よく言ったものだ……それじゃ、さしずめ、この芍陂は庭にある池だな」
 子衡さんは冗談をとばした。私は可笑しさをこらえて声を出す。
「はい、これは間違いなく、庭にある池ですわ」
 言い終えた瞬間、私は声をたてて笑っていた。子衡さんも一緒になって笑っていた。
 そう、二人で無邪気に笑い続けていた。
 二人とも笑い疲れたころ、子衡さんは再び稲田を眺める。
「ここの稲田作りを携わった人は大した人だ。俺、一度、調べたことがあるんだ。初めにいにしえの楚の国の、孫叔敖って人が始めたそうだ。だけど、長い年月が経つにしたがって、荒れ果ててきた。そして百年ほど前、王仲通って人が再びここを耕したんだ……そんな長い年月を経てこの芍陂は成り立っている。そう思うと俺が生きた十五年弱なんてとてもちっぽけなもんだ」
 子衡さんは感慨深く語っていた。
 ところが私は不謹慎にも言葉の些細なことに気が向いている。
「十五年弱? 子衡さんって何歳なんですか?」
 私の口から場を壊しかけない言葉が出ていた。子衡さんはすぐにこちらを向く。
「俺の歳か? 俺は十五歳だが、何か?」
 子衡さんは額を眉で歪ませた。私は苦々しい顔をする。
「私も十五歳です……私はてっきり、子衡さんのこと、年上かと……その、二十歳ぐらいかなって……まさか同い歳だなんて……」
 私は上目遣いで申し訳なさそうにしていた。今度は子衡さんが苦々しい表情をする番だった。その顔のまま、彼は口を開く。
「俺、そんな老けてるか? ひどいな…」
 そのまま、ぶつくさ言い続けかねない様子を子衡さんは見せていた。私はあわてて口を挟む。
「老けているだなんて、そんなこと、ありません。ほら、子衡さんって服装とか格好いいし、何て言うか、全体的に大人って雰囲気があるっていうか……」
 私は子衡さんの言葉をさえぎることには成功したけど、彼の心を落ち着かせることはできなかったようだ。
 彼の口元は笑っていたが、目元は依然、険しいままだ。
「ま、こんな誤解があるから……だから世の中、面白いってことだな」
 子衡さんはそう言い放っていた。
 私にも子衡さんにも声を立てて笑うことしかやることが残っていなかった。
 二人の笑い声は続いている。

続き

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