赤壁逍遥


 ハヨウを発った呉水軍は北上して長江に出ると、そこからまた北上して漢江にでる。
 ハヨウから漢江までは北西に向かって河を上る。
 冬の北西の風に押されて呉軍船はときおり時速にして20km/h以上を出すことができ、周りの舟は風を帆にはらんで滑るようについてくる。
 これこそ順風満帆というやつである。
 大型の楼船は帆を目一杯に張れば30キロ以上を出すことも可能だが、それほど勢いを出す必要もあるまいと周瑜は鷹揚に構えている。
 船の甲板からはときおりくしゃみが聞こえてきて、将軍たちは大丈夫かと苦笑して顔を見合わせた。
 呂蒙は孫権から横野中郎将を拝命している。
 後漢代、中郎将は将軍の中でもそれなりの地位を持っていた。董卓や曹操が後漢の中郎将であったことを考えれば、大体その地位が決して低くないことはおわかりいただけるはずである。この中郎将、禄千石というのだからこの呂蒙も若いわりにいい給料をもらっている。
 船の甲板で、身を震わせると呂蒙は冗談じゃねえとつぶやいた。
 ここに集まっている男たちはどいつもこいつも戦バカばかりだが、曹操というやつも戦バカだと呂蒙は鼻をすすった。
 バカは風邪をひかないというのはウソだと呂蒙はまた鼻をすする。
 現に自分は鼻風邪をひいた。
 長江は相変わらずゆったりと流れている。
 くそ寒い季節に野外戦をしようというのは戦バカの他にはありえない。
 霧が晴れない
 濛濛とたちこめる霧に辟易して呂蒙は船室に戻った。
 船室に戻って窓をあけても、自分の船から隣の凌統の船が見えず、今日の霧は深いなと呂蒙は嘆息した。
 こんなところで鼻をつまらせている自分も阿呆くさいが、もうそろそろ小寒も近いという季節に長江まで出てきて呉を挑発する魏も魏だと呂蒙は思いきり鼻をかんだ。
 今ごろ魏軍でも風邪をひいた患者が多発しているだろうと思うと、呂蒙は自分のことを棚に上げてざまあみろ曹操と鼻をすすりながらへへと笑った。
「呂中郎将」
 部下に声をかけられ、呂蒙は赤くなった鼻をさすりながら向き直ってなんだと横柄に返した。凌都尉からですと信を渡して辞した。
 凌都尉というのは、隣の船の凌統である。
 都尉は校尉の下に置かれる位で、将軍位の中ではそれほど高くもない。
 なにか急ぎの用でもあったかと布帛をめくり、呂蒙は嘆息した。
 今どのあたりを上っているのかとだけ書かれた信は、墨の色が黒々としていて闊達で気の強い凌統の性格そのままのようだ。
 霧がかかっていなくても自分にはわからないというのに、霧が深い中で凌統よりも川の内側を上っている自分の船から対岸が見えるかと呂蒙は布帛を机の上に放り出し、牀に寝転がると靴を脱ぎもせずに腕枕を組んだ。
 昼寝でもしようかと思ったのだが、鼻がつまってそれどころではないことに呂蒙は舌打ちをして、派手なくしゃみをした。
 隣の船の凌統は霧の深い甲板で呆けていた。
 一旦準備を統べて整えて上船してしまうとほとんどすることがなくなるのがこの水上戦のいやなところである。
 将兵相手に碁を打つのも飽きてきて、凌統は隣を見た。
 霧の向こうにぼんやりと呂蒙の船が見えている。
 呂中郎将をひっかけて賭け碁でもするか
 考えたまではよかったが、次ぎの寄港地までどれほどなのか、まったく彼にはわからなかった。
 ましてやその呂蒙が鼻詰まりで悪態をついていることなどは彼の予想の範疇にない。その後、積荷の上げ下ろしや食料の調達などで立ち寄った馬頭(埠頭)で凌統は韓当らとともに風邪ひきの呂蒙をからかえるだけからかったのだった。

 くそおもしろくもない
 周瑜は自室で悪態をついた。
 策を練るのは非常におもしろい。
 いつものようにわくわくしながらあれやこれやと考えるのだ。
 地図を脇において、ここに兵を置けるだの、あっちに罠をはれるだの、なにやら遠足の計画でも立てているような気分でうきうきとコマを動かす。
 相手が悪い。
 いつもならば魯粛と談笑しながらコマを動かすのだが、いつもどおり手番なしで動かしながらの相手は諸葛亮だった。
 この男の手癖の悪いこと極まりない。
 反則技だと周瑜が思う手を次々と出してくる。
 ある意味周瑜も単純なのである。
 政治家の諸葛亮と軍人の周瑜では根本的な思想が違う。
 そう、小ズルイ手を使ってでも標的を落とすことに意義があるというのが諸葛亮、小ズルイ手もある程度は使うが、それでも陣では先陣切って正々堂々ひとつずつ塞を潰さなくては気がすまないのが周瑜である。
 諸葛亮の思考回路は魯粛のものに近かった。
 あ、ちきしょ、やられた
 周瑜はむっとしてコマを置いた地図を眺めた。
 山際に先に罠をはられたのだ。
 しかし思うにそれは反則だろうと周瑜は唸る。
 考えてもみろ、騎馬兵だったとしても荊州から出てきて漢江に陣を張ってといってもそれが一日二日でできるものか
 どこから出てくるんだその兵は!といわんばかりの周瑜の目つきに諸葛亮は苦笑して説明をはじめた。
「こちらの陣の人員を割いてこちらに少々回しますでしょう、そうするとここまでこういう道筋で出られますから」
 詐欺だ…はっきり言って詐欺だ…
 周瑜はがっくりと疲れて椅子に座りなおした。
 そんなに人員を割いたら手を分散できないじゃないかとも思うのだが、少ない将兵で曹操を敵に回してきたこの男にしてみれば普通のことなのかもしれない。
 自分が曹操だったらそれでもこの手に引っかからないと断言できるか
 周瑜はときおり自問する。
 政治家とは詐欺師である。
 天然詐欺師相手に小詐欺師の周瑜が敵いそうにはなかった。
 それが悔しい。
 絶え間ない不愉快なにやにや笑いとこの手が気に入らない
 やはりあまり好きにはなれない男だと周瑜は憮然とした。
 魯粛は横で見ながらふたりの手を交互に見比べてどちらもお上手でと言うが、ときおりその目が鋭く地図上を睨んでいるのを周瑜とて見逃してはいない。
 飢えた獣には餌をやっておくのが一番でしょう
 そう言って自分の飼っている鸚鵡に餌をやっていた魯粛の姿を周瑜は思い出してぞくりとした。
 飢えた獣には餌、それはあの鸚鵡のことではなかったのかもしれない。
 そう思った瞬間に、魯粛の言葉がふいに険しく聞こえた。
 侮っていた
 その周瑜の視線に気がついたのか、魯粛は周瑜の方を見てにこりと笑った。
「なにか付いていますか」
 魯粛の言葉にはっとして周瑜は首を振り、あわてて地図の方を見なおした。
 諸葛亮の手はすでに決まっているようだった。
 魯粛が自分ならばと言いながら魏軍を示すコマを少しばかり岸に寄せる。
 それにあわせて周瑜は呉軍を示すコマを赤壁付近まで進めた。


11へ続く。

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