赤壁逍遥


 もし夏口から逃げるのであれば、魏軍は北へ向かうことも念頭に置くべきである。
 夏口からの逃げ道としては二通りあるが、もしも魏軍と対峙するのが夏口よりも丹陽郡に近ければそこから北上する漢江に入る手がある。
 漢江はそれほど広い河ではなく、大型の楼船が2隻も並べばその間3隻ほどの小型の哨戒船が埋めるぐらいでぎりぎりになってしまう。
 それならば小型船を多くしてその分速さを求める方が上策ではないか
 周瑜は酒の肴に地図を眺め、それから嘆息して魏軍の出方はどうかと唸った。
 呉軍はハヨウをでて荊州の方へと向かっている。
 現在荊州では、曹洪が劉jの投降を受けて襄陽に駐屯している。
 曹操自身は江陵、南郡に陣を張っており、曹仁、夏候淵らが控えている。
 江陵からであればおそらくは漢陽のあたりで魏軍と交戦することになるとみてよいだろう。
 この年建安13年秋、孫権は一度江夏へ黄祖征伐の兵を出している。
 呉軍承烈都尉凌統は黄祖との交戦にも従軍した。
 彼がこの年荊州方面の戦に従軍するのは二度目である。
 江夏戦では呂蒙を補佐として助けた経験などもあり、年若いとはいえ水軍の指揮経験は積んでいて心強い。
 夏口あたりで劉備らと対面することになりましょうと何気なく言ったのは魯粛であった。
 魯粛と諸葛亮は魯粛の指揮する船の方に船室を設けているが、指揮官である周瑜、副指揮官である程普、賛軍校尉である魯粛の三人は日程やら食料調達やらの問題で議論をするため、周瑜のいる旗艦に集まることが幾度かあった。
 魯粛の言葉に夏口でかと程普は唸った。
 そもそも劉表に保護されて荊州、襄陽、樊城に足場を置いていた劉備だったが、劉jの投降によって襄陽が曹洪の駐屯地になったことで、漢陽へと出てきたのだ。
 ときに江夏太守は劉表の長男、劉gであり、劉備は夏口に陣を置いている。
 曹操が夏口を下ってくるには劉備の陣を通過してこなければならない。
 そうは思うが、周瑜からみるとこの劉備の陣というのはいまいち頼りない。
 つい先だって、魏軍に追われたがためにこの夏口に陣取ることになったといっても過言ではない劉備陣営の移動は、この戦においての不確定要素に他ならない。
 この劉備陣営でどれだけ魏軍足止めの時間稼ぎになるかなどは決して推し量れないからである。
 ハヨウから2日半、樊口に出た呉軍はそこで船を一旦止めた。
 周瑜の船がここまで出てくるのは魯粛などの船よりもいくらか早い。
 この樊口で周瑜ははじめて劉備という男に会った。

 劉備、字を玄徳。
 周瑜はこの男について諸葛亮からいくらか話は聞いている。
 劉備を主として満足しているかと聞いた周瑜に、諸葛亮は羽扇で口元を覆ってそれは個人の主観の問題でしょうなと鼻を鳴らした。
 なるほど、個人の主観か
 うまくかわされたと周瑜は苦笑した。
 この男のことが好きではないが、それでも船上で2日3日と話しをしながら過ごしていたおかげで諸葛亮という男の思考のあり方は見えてきたような気がしないでもない。
 諸葛亮というのは生粋の軍人気質ではないようだと周瑜は判断している。
 豊富な語彙はときに予想を裏切られる形の問いかけに逡巡する光景をするりと摩り替えることに役立っているようである。話の方向を変えるのが得意な男でもある。
 魯粛との舌戦があれば見物だがと周瑜は一人片方の口角を上げてにやりと笑う。
 魯粛という男は文人というのが似合っているようであるが、鎧姿が似合っていたことには少々驚かされた。
 あの男は軍人というでも文人というでもない。
 やはり商人なのだろう。
 自分に利ありと見れば他国との協力を惜しまないばかりか積極的に手を打ち始める。
 投資が得意なのだ。
「将軍、劉皇叔殿がおいでになりました」
 船上でというのは礼を失している気がするが、それでも陣営を離れるのは最小限にすることは必要である。
「料理はもうお持ちしてよろしいですか」
 料理係の兵士が顔を覗かせ、周瑜は頼むとうなずいた。
 侍っているのが兵士ばかりであることに、船室へ入ってきた劉備は苦笑し、横にいた兵士に、周瑜は女嫌いなのかとそっと耳打ちした。兵士がこそこそと、奥さまが怖いのですよと冗談を劉備に返してふたりでひっそりと笑った。
 しかし周瑜とて別に女が嫌いなわけでも妻が怖いわけでもない。
 応えた兵士もそんなことは先刻承知である。
 南の船乗りたちは、船に女を乗せると河が荒れるとか船が沈むという言い伝えをもっているのである。それは北の人間の預かり知らぬところである。
 劉備に続いて関羽、張飛らが来るのに周瑜はやはり一抹の不安を感じないではなかった。
 こいつらいつも三人で行動してるのか?
 40代も後半になろうという男どもが三人で、それはある意味お関わり合いになりたくないような気もしないでもない。
 互いに紹介をしている間にも、卓上には次々と皿が並べられてゆく。
 どれも揚州の名菜ばかりである。
 といってもそれほど有名なものといえば揚州チャーハンやら揚州焼き蕎麦やらぐらいしかないのだが。
 しかしずらりと並べられた菜の数は二十数皿、男4人でこれだけ食べるのかと思うほどしっかりと綺麗に盛り付けてある。
 玉米湯、黄雲豆腐、生菜魚など、材料は安いのだがそれでも見目のよい菜が卓上に並んだ。
 辛いものがほとんどないのは、周瑜は辛いものが食べられないからである。
「どうぞ、皇叔殿。魚料理が結構ありますでしょう。これが江南の特色でして。お気に召しましたらいくらでもお出しいたしますよ」
 周瑜の言葉に劉備はありがたいと応えるがそれだけでは終わらなかった。
「お言葉ありがたく。ただ私どもはやはり荊州の菜に慣れておりますから、やはり荊州の菜が一番恋しいのですよ」
 くすくすと笑う劉備に、周瑜もそうですかと笑った。
「なるほど、荊州の菜は揚州の菜よりも美味しいですか」
 苦笑しながら周瑜の言う言葉に、やはり劉備も苦笑しながらええとうなずく。
「江南の菜は辛いものがないと聞きましたが、本当にそのようで。荊州の菜は辛いものばかりなのですよ。唐辛子をふんだんに使うもので。怕不辣(辛くなければ嫌だ)というやつです」
「なるほど、辛くないとだめですか。それでは今度私が宴をご用意させていただく機会があれば辛いものをお出ししたほうがよろしいようですね」
 そんな機会は今後二度とないだろうと思いながら周瑜は笑った。
 未だ魏軍は影も見えてはいない。
 他愛のない話をしながら、周瑜は手早く菜を分けてゆく。
 そんなに客人にやったら残りのお相伴がなくなるじゃないかと思いながら周瑜の横で兵士は見ていたが、主人役が菜を次々と客人の器に載せてゆくのは習慣である。こればかりは上官に対して文句の言いようがない。そして劉備は貧乏性である。出されたものはほとんど食べる。関羽は礼儀をわきまえており、菜の名をいくらか尋ねながら箸をつける。張飛にいたっては周瑜に盛られた先から口に運んで食べてしまうため、周瑜は苦笑するほかなかった。終いには菜はほとんど空になり、この三人が横にいて諸葛亮は菜にありついているのだろうかと周瑜が柄にもなく諸葛亮を心配したほどである。
 ところでと劉備がきりだし、本題がきたなと周瑜は構える。
「今ここで曹孟徳を押さえようとしているわけだが、孫軍はどれだけの兵数でこれを押さえるおつもりですかな」
 劉備の真剣なまなざしに、周瑜は微笑して三万ですとあっさり応えた。
 三万
 劉備が口内で転がした言葉には苦渋が窺える。
「少ない」
 ぽつりと劉備の言う言葉に周瑜は首を振った。
「十分です。ご不安であれば私が魏水軍を討つのを眺めていらっしゃればよろしい」
 この言い方には関羽、張飛はいささか不興を催した。


12へ続く。

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