赤壁逍遥


 晴れた
 誰もが空を見上げた。
 この季節、空が真っ青に晴れ渡るというのは長江流域ではあまりない。
 真っ青に晴れ渡った高い空に鳥が高くはばたく。
 戦日和
 ありはしない言葉だが、このとき両軍の男たちの胸中には同じ言葉が浮かんだに違いない。
 赤壁の役と呼ばれるこの戦はここに魏呉両軍が本格的に干戈を交えた。
 おりしも魏軍ではこのとき疫病にかかるものが出てきている。
 周瑜が開戦演説で言ったとおり、北の人間にとって南は疫病の多発地帯なのである。
 もっとも南の人間が北は衛生的ではないから要注意というようにどっちもどっち、水が合わないということも大きな要因なのだが。

 戦鼓の音が両陣から鳴り響く。
 先鋒、黄蓋隊がまず魏軍へ船首を向けた。
「魏軍に目にものを見せるのはこの隊ぞ!一番手柄を取れ!」
 黄蓋の老いてなお澄みきった低音が隊に響く。
 その横で黄蓋隊の軍楽隊がドォォンと大きく戦鼓を鳴らし、それから音の間隔を詰めてドォドォと戦鼓を叩き鳴らす。
 進軍命令の戦鼓だ。
 呉軍の蒙衝闘船(小型の突撃船)は精鋭兵たちの手でずいずいと魏軍船に引き寄せられるように突進してゆく。
「命知らずに江東の底力を見せ付けてやれ!」
 将軍の怒号に兵士はそろっておうと大きく声をあげ、それから調子よく声をそろえて進軍の掛け声を掛け合いだす。
 黄蓋に遅れ取るまじと戦鼓を鳴らしたのはやはり甘寧隊、凌統隊である。
 本隊として旗艦を取り巻くように長江を上ってきた艦隊は、ここにきて退屈に鬱々としていた男たちによって猛獣のような牙をむき出す。
「がつんと一発食らわせてやれぇ!俺らを嘗めくさったことを後悔させたれやぁ!」
 甘寧の檄に甘寧隊の荒くれ男たちがおうと声をそろえる。
「甘興覇だけに手柄を取らせてなるものか!南の男の腕の見せ所ぞ!」
 凌統の檄にはいささか個人的怨恨が含まれているようである。
 セイオウ、セイオウと男たちの掛け声が冬の空にこだまする。
 上流へと上るにも関わらず、呉水軍の蒙衝闘船は氷の上を滑るように速い。
 甘寧、凌統が先頭を切ったのに、呂蒙、韓当ら本隊の船団が次々と後を追う。
「これが手柄の立て時よ!失敗は許されん、心してかかれ!」
 とは呂蒙の檄。
「先走るな!慌てれば取れる功もなくなるぞ!」
 こちらは韓当。
「遅れをとるでない!鼓角を鳴らせえっ!手柄は我らのものぞ!」
 これは周泰。
 ざんと水を切るようにして呉軍の蒙衝闘船が進む音がそこここから聞こえてくる。
 我先にと将軍たちが功を競って進ませる。
 ひとつ高い楼船から見下ろすその光景は、それでも隊列は乱れることなく、整然とした小型の蒙衝闘船が糸にひかれるように魏水軍へと向かうのを、どこか絵空事のようにも見せる。
 周瑜らの旗艦は回りの蒙衝闘船に比べてゆっくりと進み、楼船で蒙衝闘船の邪魔をしないようにと少し離れたところで止まった。
 下からは呉水軍と魏水軍の兵士の入り乱れる音がはっきりと聞こえてくる。
 ドオォォォンッと大きく周瑜の楼船の銅鑼が鳴らされた。
「焦るな!戦は長い!自軍の打撃を最小限に押さえろ!」
 周瑜の低音の効いた声が全軍を震わせるようにたからかに天に響く。
 横から旗艦に乗りこんでいる兵士が幾人かばらばらと周瑜のもとへ駆け寄った。
「都督、我々も蒙衝闘船を下ろしますか」
 兵士の言葉に周瑜のゲンコツが降りた。
「バカ者、焦るなと言ったばかりだろうが」
 失礼いたしましたと兵士たちはそれぞれに持ち場へと散る。
 蒙衝闘船を下ろしましょう
 こちらでも兵士たちがそろって上官のもとへと駆け寄っている。
 魯粛の艦についている兵士たちだ。
 魯粛は手を顎にあててすこし考えていたが、それでもいやと首を振った。
「焦る必要もない、前哨戦だ。ここで無理をして兵力を損なう必要もない。体力は温存しておけ」
 しかしとまだ何か言いたげな兵士のほうにちらと目を流してあきれたように魏軍をもう一度見やった。
 すでに各隊の蒙衝闘船が入り乱れている。
「賛軍校尉!」
 兵士の方へ向き直ると兵士は真剣な面持ちで上官の命令を待っている。
 これが呉の兵士か
 魯粛は嬉しくなったがそれでも戦局を混乱させることはできないと頭を振った。
「住口(黙りなさい)」
 魯粛は鞘に収めたままの剣でダンっと床を打ちつける。
「持ち場へつくように、これは上官命令だ」
 魯粛の言葉に兵士たちは不承不承といった様子で持ち場へと戻って行く。
 文官であった手前、ここで蒙衝闘船を出しておけば兵士になめられることもないのだろうがと魯粛は思うが、しかしすでに黄蓋隊、甘寧隊、凌統隊、呂蒙隊、韓当隊、周泰隊が魏水軍の方へと出払っている。兵士が多すぎれば機動力に混乱をきたす。
 見たところ現在魏水軍から出てきている蒙衝闘船の乗り手は魏軍の総数から見てそう多くはない。
 総出でくるかとも思ったが、しかしそうバカでもなかったかと魯粛は内心で笑った。
 やはり私は将軍向きではない
 ほとため息をつき、天空を見やるとそこには普段と同じように鳥が飛んでいる。
 人間の戦などおまえたちには関係のないものなのだなと魯粛はつぶやいた。

 わと呉軍兵士が悲鳴をあげるのは何も斬られたときばかりではない。
「こんなところで吐くんじゃねえ!」
 魏軍兵士の船酔いは普段以上に多くなっている。
 仕方がないのだ。
 船は馬に比べてゆれが大きく、身体の固定が効かない。
 なれている呉軍兵は縦横無尽に船から船へと渡り歩くが魏軍兵はそうもいかないのである。
 黄蓋隊の蒙衝闘船は魏軍船を一通り沈没させると次にはここからが本番とばかりに矢を構えて残りの魏軍船に放つ。
 矢を避けて立ちあがったり逃げようとして焦った魏軍兵によって、沈没せずに残った魏水軍の蒙衝闘船の先頭列もバランスを崩して自滅してゆく。
「そこで落ちてろ!」
 呉軍兵の声とともにバッシャという人の落ちる音がそこかしこから聞こえてくる。
 わあという悲鳴の中に、おぼれる!という悲鳴が上がり、呉軍兵はときに息をつめ、ときに肩で息をしながら、それでもときに笑い声をあげた。
 キインッ、ギンッ、カンッと剣のぶつかる音が船と船の間を満たす。
 甘寧は兵士に混じってここが見せ所ぞとばかりに船から船を軽々と渡って剣を払う。
 揺れる船の上で、上手くバランスをとり、兵士の合間を縫って足を踏み込ませて次々と魏軍兵を水底に突き落としていく甘寧の速さには隣を進んできた凌統が水賊さまの経験かいとへっと鼻を鳴らした。
 その凌統も自軍の船から飛び降りて魏軍船に移ると剣の鞘を払って白刃を青天に煌かせる。それは韓当らも例外ではない。
 焦る魏軍兵はそれこそ血気にはやる呉軍兵の餌になった。
 魏軍兵の中には捕虜になるものも多くいる。
 落水して呉軍兵に引き上げられるものは皆捕虜だ。
 捕虜収穫に精を出しているのは呂蒙隊である。
「殺す必要もない、魏将が上から降ってきたら生かしたまま都督への手土産にしてやろうじゃないか!」
 相変わらず鼻をすすりながらの呂蒙の声にどっと呂蒙隊の兵士たちが笑う。
 ちなみにここで呂蒙の言う「降ってくる」とは「投降来了」ではなく普通に「落下来了」である。
 呉水軍の一日の長は伊達ではない。
「魏将魏将!落下来バ!捉捕一下!給大都督!(魏将よ魏将よ!落ちて来い!ちょっと捕まえて大都督にあげようじゃないか!)」
 呂蒙が調子をつけて声をかけると呂蒙隊の兵士が面白いとでも言うようにそれを繰り返した。
 ウェイジァンウェイジァン!ルゥォシィァラィバ!ズゥォブゥイィシィァ!ゲェイダァドゥドゥ!
 呂蒙隊の合唱に呉軍陣からはどっと笑声があがった。


15へ続く。

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