赤壁逍遥


 はっはっはと男たちの豪快な笑い声が呉軍陣営に響く。
「まずは、前哨戦の勝利に!」
 周瑜の言葉に将軍たちは声をそろえて乾杯と杯を掲げた。
 白酒を飲み干した男たちが杯を逆さまにして互いの前で見せ合う。
 燎がちらちらと燃え盛る炎から火の粉を散らしている。
「さすがに甘興覇、元水賊だけのことはある!」
 呂蒙の声に甘寧が恐れ入ったかと笑い、その横から周泰が口を挟む。
「なに、おまえさん水賊時代を思い出して魏水軍から土産を取ってきたんじゃないか?」
「それよそれそれ、いいお宝はあったのか」
 周泰と韓当の言葉に顔をしかめて甘寧は何もねえよと杯を上げて乾杯と自分の杯をもう一度乾して逆さに振った。
 けらけらと周瑜と魯粛が笑う。
「お宝がねえと言って、お宝目当てじゃ呉の将軍には向かねえんじゃねえか」
 へっと笑う凌統に甘寧がガキと返して凌統が目を剥いた。
 それを見て呂蒙が真っ先に笑い出し、続いて韓当、程普、周泰が笑い出す。
「興覇よ、おまえそのお子様相手にしているようじゃ自分もお子様程度だってことを証明しているようなもんだぜ」
 ははと笑う呂範に甘寧がひでえっすよと眉を下げて見せた。
 長江の南岸からは北岸に陣を張った魏軍の燎が見える。
 曹操が、小僧にしてやられたかとつぶやいて笑ったことは周瑜の知るところではない。
 呉軍の将軍たちの手柄自慢は夜更けまで尽きるところを知らなかった。
 幕舎の中では将軍たちの笑い声が上がる。
「撤退してきたときに子明の船団から吐くんじゃねえって声が聞こえてきたのには笑ったぞ」
 孫賁の言葉に呂蒙が酒を吹きそうになりながら杯から口を離して手を振った。
「しょうがないんですよ、ありゃ。大体にしてあんな船に慣れてない兵士を連れ出してくるなんて思いもせんでしょう」
 慌てて弁明する呂蒙に魯粛がくっくっと声を殺すようにして笑い、呂蒙が賛軍校尉までと憤然として見せる。
「さてさてさて、これで魏軍には一勝零敗!まずは一勝を祝して!」
 不機嫌にして見せる呂蒙に笑いながら韓当が呂蒙をなだめるようにもう一度戦勝の乾杯を促した。
 ばらばらに男たちが杯を掲げてまた杯を乾す。
 中国の男というのは非常に酒に強い。
 酒を飲めぬは好漢に非ずというほど酒を飲む。
 日本人は白酒(バイジウ)を飲むと2杯も飲めれば十分というものだが、中国人はこの白酒一升を普通に一日で空ける。
「こんな奴が上から降ってきたんだから魏軍の兵士も浮かばれないな」
 笑いながら甘寧に杯を向ける呂蒙に凌統がそうすよねと相槌を打ち、呂範が水賊にこられちゃ逃げようがねえと笑い、韓当がまったくだと豪笑する。
「おまえ捕虜に暴れられてこけそうになったのはどこのどいつだ」
 いい返す甘寧の言葉に呂蒙が俺は博愛主義者なんだと言って幕舎の中はどっと笑い声に満ちた。

 明けて翌日、幕舎の中には死屍累々と、いや、ころがるトドが屍のようにのさばっている。
 はくしょい!とくしゃみをしたのはやはり呂蒙で、その横で寝ぼけた甘寧が風邪をうつす気かと呂蒙の頭を小突いた。
 この寝こみを襲われたらどうするつもりだったのかとも思うが、しかし寝付きがよく寝起きもよい将軍たちは三十分の睡眠でもしっかり起きる。
 魯粛はすでに陣内を散歩して兵士たちに声をかけている。
「ご苦労さま、これからが本番だ、頑張ってくれ」
 魯粛の言葉に兵士たちははと敬礼をするが、しかしそれでも陣内で文官出身であることで軽んじられていることは魯粛とてぴりぴりと感じる。
 さて自分に何ができるだろうかと魯粛は思う。
 まあとりあえず食料補給の道ぐらいは確保しておかれるかと考えてから、魯粛は自分の幕舎へと取って返した。
 これから一体どうするのか
 魏軍がこれに懲りて船上戦を嫌ってしまえばそれで呉の優位はそこまでだが、しかし北岸に陣を張り、船を手入れしているということは未だ船上戦で勝利することを諦めてはいないと見える。
 幕舎の、自分の牀に寝転がると魯粛はふんと鼻を鳴らした。
 文官出身の賛軍校尉は兵士の中では異端児か、まあそれもしょうのない話だ。周公瑾に程徳謀、蒙ちゃんも皆武勲をたてて将軍としての地位を得た。しかし自分はどうだ、粛よ
 寝転がったままで横に立てかけた剣を取り、魯粛は白刃を鞘から抜き放つ。
 研ぎ澄まされた諸刃の剣が魯粛の顔を映し出す。
 周瑜はこれ以上の投資対象にはなり得ない、考え得るのは蒙ちゃんかと魯粛は息をついた。
 呂蒙を孫権が買っていることは知っている。
 江夏戦でも呂蒙は智将に近い戦い方をした。
 呂蒙と蒋欽に学問をするように孫権が促したという話も聞く。
 呂蒙は投資対象になるだろうかと魯粛は思案する。それから蒋欽かと唸ったが、蒋欽が最近学問にいそしんでいるとはついぞ聞かない。
 白刃が暖かい息で曇る。
 剣を手にするのは何年振りのことかと魯粛は思案の方向を変えた。
 少年時代には剣のために父親を嘆かせたこともあったが、それすらすでに遠い昔のことのように思える。
 牀から跳ね起き、それから魯粛は空を切って白刃を唸らせた。
 腕が鈍ったな
 くっと息を詰めて笑いを押し殺し、剣を鞘に収めて魯粛はまた牀に座り込む。
「この分では弓の腕も鈍っているに違いない」
 小さく口内で転がされた魯粛の独り言を聞きとがめたものはいなかった。

 意味がわからん
 件の呂蒙は兵士に一通りの指示を与えて幕舎へと戻り、それから暇つぶしにと持ってきた孫権からの指示で読まされている書を広げたのだが、すこし目を通してつぶやいた。
 読みかけの左伝は秦の穆姫が晋侯が来たということを聞いたというところから進んでいない。
 女の行動というのは何が何でどういう理屈がついてきているのやらさっぱりわからん
 秦の穆姫がというところをもう一度読み返し、呂蒙はやっぱりわからんとうなずき、そこは飛ばすことにした。
 ここにいるのは男ばかりだ。
 周瑜に聞いても毎回毎回出陣のたびに夫婦喧嘩をしたと言っている男に女の行動心理何ぞというものがわかろうはずもないような気がする。周瑜は界隈一の好男子とは言われるが、惜しむらく、戦バカである。呂範はどうか。女心がわからんでどうやって美人を引っ掛けるとバカにされそうである。魯粛は前記二人に比べて朴訥としていて女のことは頼りになるとも思えない。黄蓋、韓当に聞いたところで、話はすでに過去の記録と化している。孫賁、周泰、甘寧、潘璋、この四人には聞くだけ無駄というもの、遊郭の妓女の話しになるのがオチ。年下の凌統や陸遜に聞いて返事をされてもショックだ。
 しかし一体なぜ韓原の戦の話からいきなり秦の穆姫が出てくるのか、それも謎である。
 呂蒙は一生懸命にこれを書き写しながら自分なりに解釈しようとするものの、解釈に詰るのは常のことである。
「面倒くさいもんだな、女というのも」
 この呂蒙のため息と共に吐き出された言葉を聞いた兵士が呂蒙のところに恋文がきたものと勘違いし、後々甘寧はじめ周泰、呂範らに突付かれたのはひとえにご愁傷さまと言う他ない。
 こうして呂蒙が女性心理に悩んでいるころ、黄蓋が周瑜の幕舎に顔を覗かせていた。
 墨をすり、おもむろに筆をとったところでまたくしゃみをして鼻をすすった呂蒙にはまだ関係のないことである。


16へ続く。

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