赤壁逍遥


 黄蓋の言葉に周瑜はなるほどとうなずいた。
 船が繋がれている以上、魏軍は火計を避けられますまい
 黄蓋は周瑜にそうささやいたのである。
 火を以って制す、それは兵法にのっとった戦い方であり、奇策というまでもない。しかしそのためには誰かが魏軍へ火をかけることが必要なのである。
 風が吹く
 黄蓋が言い、周瑜が黄蓋を振りかえった。
「上風が得られますか」
 周瑜の言葉に黄蓋がははと笑う。
「得られます、もっとも成功するのは、魏軍がその前に火を以ってこなければという条件がありますな」
 ふうんと周瑜はあごをなでる。程普や黄蓋がこういった仕草をすると様になるのだが、まだ若く、ひげを蓄えていない自分がすると様にならんなと周瑜は内心でため息をついた。
 それならば枯草がいりますねと言って周瑜は地図を広げだした。
「それから油だ。近所からありったけの枯草を集めて油をかければよいですね、それじゃあ油を送ってもらわないとなりませんよね」
 子供のようにはきはきと喋りだして机に身を乗り出す周瑜に黄蓋は内心で快心の笑みをもらした。
 程普から、周瑜という男が夢中になり始めると身を乗り出してくると聞いていたからだ。
 しかしとつぶやいて眉をひそめた周瑜に、黄蓋は老将がまず襲撃しましょうと言って周瑜の目を丸くさせた。
「なに、興覇か子明に行かせればよいと思ったのですが」
 周瑜の言葉に黄蓋が首を振る。
「いけませんな、若い都督は老人から見せ場を奪いますか。先鋒はこの公覆隊ですぞ、ここで見せねば後はいつ見せ場ができるかわからんというのですから、ここは老将の筋書きに合わせてくれてもよさそうなものだが」
 くっくっと押し殺した声でのどを鳴らして笑い、周瑜はかしこまりましたと黄蓋のほうへ向き直って見せた。
「それでは、私に下さる役目がどのようなものかお聞かせくださってもよろしいでしょう」
 周瑜の言葉にふむとうなずいて黄蓋は指を立てる。
 私を罵倒してくださればよい
 黄蓋のこの言葉には周瑜は顔をしかめて腕組みをした。
 それはまったく難しいとつぶやいて、黄蓋を恨めしそうに見る周瑜の仕草に黄蓋は笑ってしまった。
 孫家の呉夫人にしかられて一小爺の孫策とともに庭先で反省させられていた子供のままだなと思ったのだ。
 しかし周瑜にとってはそれは当然のことで、彼の少年時代といえば、南邸の孫策と一緒になって孫将軍や程将軍のようになるのだ、それじゃあ俺は黄将軍や韓将軍のようになると言って庭で棒切れをぶんぶんと振りまわしていたというのが真相である。
 憧れであった将軍を罵倒しろというのは非常に難しいことで、このようになりたい、あのようになりたいといった部分はいくらでも出てくるのだが、何を罵倒すればよいのかと悩む周瑜を見て黄蓋は息をついた。
 おまけに公衆の面前で大声でと付け加えられてしまった周瑜はどうしようもなかった。
 椅子に座りなおして情けない顔で黄蓋を見る周瑜に、黄蓋はわかりましたとうなずいて見せる。
「私が指示を間違えましょうか、それを見咎めてくださればよい」
 周瑜は不承不承うなずいて黄蓋を送り返すことになった。

 さて呂蒙はといえば、未だに左伝で悩んでいる。
 読んでいて面白いことはこの上ないのだが、これを解釈しろと言われるとどうにも解釈の仕様がない。
 女のところは暫時停止ということで飛ばしたものの、今度は周易が出てきてしまって呂蒙の左伝講読はまたとまってしまった。
 グィメイジィクィ(帰妹之ケイ、ケイの字は「目」に「癸」:※周易の一つ、グィメイは下兌上震、クィは下兌上離で意味は「変化あり」)、一体なんだこりゃ。妹が帰ってこれを何?この字はなんと読むのだ?
 占うと言っているのだからこれは周易なのだ。
 ところが手元に周易の本はない。家にはあるとはいえ、まったく手付かずのままで埃を被りつつある。はっきりと不吉だと占い師が言っているのだから、これは不吉なものなのだと理解して呂蒙はこれもまた不消化のままで飛ばす。
 しばらく続きを見てはいたものの、呂蒙はとうとう椅子を立った。
 周公瑾、程徳謀、魯子敬、呂子衡、このあたりの人間ならばわかるだろうと考えて呂蒙はこのうちの誰かを見つけることに決めたのだ。
 ちなみにこの場合には、普段呂蒙と仲良しの凌統、甘寧らがしょっぱなから対象外に分類されていることは言うまでもない。
 呂蒙から、周易はわかりますかといきなり聞かれて、地図を眺めていた周瑜は思わず間抜けな声で聞き返してしまった。なんのことはない。朝からあっちだこっちだと走り回っている将軍たちの中で、幕舎で地図を見ていたのが周瑜だったというだけのことで周瑜は呂蒙につかまったのである。
 左伝を出されて周瑜はどれと呂蒙から左伝を受け取って、戦場で見るなら孫子にすればよかったのにと呂蒙の書簡をからからと広げた。
「周易ねえ、久しく見てない」
 つぶやいてから周瑜はここがと呂蒙にとんとんと指でたたいて見せる。
「ここで史蘇というのが占い師の名前で、彼が占った結果このグィメイジクィというのが出たわけだ」
 細かいところはすっかり忘れたわと自分であきれながら周瑜は左伝をまたからからと音を立てて開いてから、しばらく動作を止めた。
 なにがあったのかと呂蒙は思ったが、周瑜は首を振って何でもないと言ってから左伝を巻きなおす。
「勉強してくれ」
 周瑜に言われて呂蒙は左伝を受け取ってはいと応えると幕舎に戻ろうとすたすた陣営の中を歩いて帰った。

「那個臭老頭(ネィガチョウラオトゥ:あのくそじじい)!」
 ふんと鼻息荒く言って横にあった牀を蹴りつけ、痛えと叫んだのは凌統であり、彼曰くところの「臭老頭」とは甘寧のことである。
 凌統は呂蒙が左伝に悩まされていることなど関係がない。
 自分の足をさすりながら片足で飛び跳ね、それもこれも全部甘寧のせいだと責任転嫁した。
 このところ彼は剣の手入れに余念がない。もちろん甘寧のためである。
 見ていろよ甘興覇、今度こそは父の恨み晴らしてやる。魏軍兵の首級の中におまえの首を並べてやるから首根っこ洗って待っていやがれ
 きれいに磨き上げた自分の剣を眺め、それから凌統はもう一度ふっふっふと笑った。
 甘寧は以前江夏の黄祖のところにいたことがあり、孫権の江夏征伐に同行した凌統の父は甘寧の矢で死んだのである。
 もっとも凌統自身が見ていたわけではないので、根拠は伝聞としか言いようがない。
 それでも彼にとって甘寧が父の仇であることに変わりはなく、凌統は隙あらばとばかりに甘寧を付け狙っているのである。
 甘寧が呉に来た当初、凌統は孫権に向かって父の仇を討たせてくれと頼んだが、甘寧が呉に投降してきた以上は彼も呉の将軍のひとりだからだめだと孫権に諌められ、それならば暗殺してやれと剣を磨く毎日が続いた。
 赤壁に来て、甘寧と組まされたことははなはだ不愉快だが、しかし仇討ちにはもってこいの機会ではないかと彼は前向きになることにしたのである。
 凌統のお守り役改め目付け役呂蒙がため息をつく理由はこれであった。
 さて、と腰を上げ、凌統は自分の幕舎を出ると護衛の兵士には、そこらへんで運動をしてくると言ってふらふらと足取り軽く陣営の中を歩き回って甘寧を探した。
 当然甘寧に見つかってはいけない。
 凌統のかくれんぼは今のところ鬼(甘寧)を殺すまで続く予定である。
 そして凌統は今日も足取り軽く、甘寧の陣営にたどり着くと例のごとく甘寧を探し始める日課を始めた。


17へ続く。

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