赤壁逍遥


 普段と同じように舟を手入れしていた甘寧は、最近凌統が自分を追いかけていることを呂蒙から聞いて知っている。
 呂蒙は、公績はまだガキだなと言うが、甘寧にしてみればそれほど目くじらを立てるようなものではなく、むしろ自分が凌統の父を敵同士であったからとはいえ射殺したことには変わりがない。凌統が自分を狙うのはしごく当然のことであり、自分が凌統の父の代わりに凌統を守るのは呉に来た以上自分の役目であるとひとりで決心した。
 言ってしまったら、ただの紙くずに書いた契約よりも軽い言葉になってしまうが、言わなければそれは自分にとって一生の枷になることも甘寧は知っている。
 これ以上裏切りをするような真似はしないと蘇飛の首を見ながら自分に言い聞かせた甘寧にとって、それは一生の仕事になるだろう。
 舟を磨きながら、背後に凌統の殺気がないのを感じて甘寧は首をひねって後ろを覗き見た。普段ならば兵士のほうを振りかえるふりをして後ろを見れば、たいていそこに凌統の影が見え隠れしている。
 凌統の鬼ごっこは完全に手加減されているアンフェアなものになったようである。
 今日はきちんとお仕事か
 口元をほころばせて、他人にはとても笑っているとは思えないが、笑ってから舟をまた磨き始めて甘寧は鼻歌を歌い始める。そこまではいつもと同じ、能天気な甘寧の日常であった。
 這個呆子(ジェィガダイヅ:このボケ)!
 いきなり飛んできた罵声に甘寧は馬頭(埠頭)のほうを振りかえり、次の瞬間には地面を蹴った。
 陣中に飛び交う罵声の応酬には珍しい男の声がしたのだ。
 群がる野次馬の中を掻き分けて馬頭の前のほうへたどり着くと、そこにはすでに呂範や呂蒙、凌統が見物人で混じっている。
 前を見て甘寧はあんぐりと口を開けた。
 これがもし呂蒙と凌統の口喧嘩だというのであれば何も驚くことはなく野次を飛ばしてやれやれと双方をけしかけているところだが、口論をしているのは周瑜と黄蓋という珍しい二人組みである。
 普段であれば周瑜という男はそう軽々しく罵声を飛ばすような男ではないし、黄蓋もそれに激昂するような男でもないということは将軍の中では新参者の甘寧も知っている。
 しかし目の前で罵声を飛ばしているのはその二人である。
「一体何があったんです」
 甘寧の小声に呂範が俺も知らんと横目で甘寧を見ながら甘寧に耳打ちする。
 その横から周泰が身を乗り出して俺たちが来てみたらすでにこの有り様だと首をすくめて見せた。
「公覆将軍が珍しく下命を聞き違えたのですよ、それを都督がまた、ジジイがボケたかなどと言うから公覆将軍が怒りましてね、この有り様ですよ。ほれ、おかげでさっきから呆子(ボケ)と臭フォ子(チョウフォヅ:クソガキ)の繰り返しです」
 呂蒙が面白くもなさそうにあごで二人のほうをしゃくって見せる。
 口をひん曲げてあごをしゃくる呂蒙の仕草に二人のほうを見れば、飛び交う言葉の端々に、呂蒙の言ったとおりの言葉が聞き取れる。
「聴見了没有(ティンジェンラメイヨウ:聞こえるでしょう)」
 呂蒙の言葉に聴到了(ティンダオラ:聞こえる)とうなずいて甘寧はあきれた。
 周瑜のほうを見ても黄蓋のほうを見ても、普段の二人からは想像もつかない言葉が飛んでくる。
「ヘイッ、這個老人的耳朶是没有用的呀(この爺さん耳も聞こえないか)!我説明了好幾次都聴不見了マ(なんども説明したのにどうせ聞こえていなかったんだろう)!ア対ラ(違うか)!」
 周瑜が黄蓋を上目遣いに見て言いながら、自分の耳をつまんでみせるのに、黄蓋はその周瑜の手をばしと叩いてはらい、周瑜の耳を引っ張って怒鳴り返している。
「フンッ!這個臭フォ子説什マ話呀(クソガキが何を言うか)!好像我錯看ニィ了、快ニィ的嘴バ閉下来バ(どうもおまえさんを買い被っていたようだ、はやく黙れ)!好好想一想ニィ的経験長、返是我的経験長?当然是我的バ(私の経験とあんたの経験どちらが長いかよく考えてみろ?私に決まってるだろうが)。我凭自己的経験作這様ア(経験に基づいてこうしているのだ)。ア知道了(わかったか)!」
 自分の耳をつかむ黄蓋の手をはらい、周瑜がありったけの大声でふんっと言い返す。
「アー!知道了知道了―(わかりましたわかりましたー)!反正ニン看看バ(それでも見てみろ)、現在我当作大都督、ニン応該聴我的話(今は私が大都督を務めているのだからあなたは私の言うことを聞くべきなんだ)!」
 甘寧の見るところ、そろそろ二人とも冷静さを取り戻してはきたように思える。だが周瑜のその口調はそれまでに増して悪くなっている。黄蓋はさすがにそれなりの度量は持っているようだが。
「小孩子、ニィ算自己是什マ東西呀(小僧が、自分が一体何様だと思ってるんだか)!」
 自分の頬を叩く黄蓋の手を引っつかんで力いっぱいに下ろし、黄蓋の目を指差す。
「アー…ニン這個老人、難道連眼睛都没有用マ(ははあ…この爺さん、ひょっとして目まで使い物にならなくなりましたか)。難怪ニン看不見我的軍旗(道理で私の軍旗が見えないわけだ)。如果能看見的話、ニン就知道東呉的指揮官就是我、対バァ(もし見えていたら東呉の指揮官は私だと知っているはずですよね、違いますか)?」
 精一杯に、これ以上はないという周瑜の奢った仕草と言葉には黄蓋は内心で苦笑し、これが終わったらこの青年には一杯奢ってやるかと息をついた。
 まったくこの青年は本来役者向きらしい、そういえば昔からだまし討ちの得意な少年だった。孫家が盧江にいたころ、周瑜が倒れたと言って慌てた孫策がすっ飛んで行ってはまた仮病だと言いながら帰ってきたり、母や呉夫人にしかられて悔しそうにして涙をこぼしているから反省したかと思いきや、廊下に出てから舌を出して顔をしかめながら袖に忍ばせたネギを捨てていたりと、変なことに頭の回る少年だった。黄蓋思うに、そんなことをしているから程普に避けられたのだ。
 そんなことを考えながら、それでも黄蓋の口もよく回っている。
「是ニィバ、小フォ子(それはおまえだ、この小僧)!返是ニィ不知道戦法バ(やはり戦い方を知らないだろう)?」
 戦法、と口元を歪めながら周瑜が聞き返す。
「我対戦法了解了多呀、不知道戦法ゼマ当作大都督ナ(戦法でしたら知っていますよ、戦法を知らずにどうして大都督を務められます)?」
 周瑜の言葉にフンと黄蓋が鼻を鳴らす。
「ニィ了解戦法了(戦法を知っている)?ナァ応該理解我的想法(ならば私のやり方がわかるはずだ)!対不対(違うか)!」
 黄蓋の言葉に周瑜が言い返そうとしたところで男が周瑜と黄蓋の間に身体をすべるように割り込ませて片手を上げ、周瑜の口を封じるようにして目だけで二人を見比べた。
 顔の前に手を出されて口を引き結び、周瑜はその手と観衆をやはり目線だけを動かして見比べた。目の前に手を突き出した男はにやりと笑って周瑜のほうへ目線を流し、それから黄蓋のほうへもう一度目線を流す。
「二人とももうそろそろ終わりにしてもいいでしょう。公瑾、老将に対して言い過ぎたきらいがあります。それから公覆将軍、あなたも子供相手に向きになって言い返すよりは公瑾には公瑾の打算があるということをわかってやってもよいでしょう」
 いつの間にあの男が前に出たのかと呂蒙は脇を見た。
 横にいたはずの呂範がいつの間にやら二人の間に割り込んでにやにやと笑っている。
「呂子衡(リュィヅハン)、給我譲開(どいてください)」
 周瑜の言葉に呂範が首を振る。
「不行(ブシン:できない)。対了、如果ニン要我給ニィ譲開的話、ニィ不要這以上的チャォ架(そうだな、もしどいてほしければこれ以上の口論はしないことだな)。エィ各位将軍、這個条件行不行ヨォ(おい皆、それでどうだ)?」
 言いながら呂蒙、凌統、周泰、甘寧らを見まわして周瑜を指でつついてみせる呂範に将軍たちは好地(いいぞ)!と顔を見合わせてにやつきながらうなずいてみせる。
 周瑜は仕方なさそうに黄蓋を見てから首を振ってうなだれている。
「好地好地、知道了(はいはい、わかりましたよ)。子衡、給ニィ点点面子(あなたの顔をたてよう)。但老将軍(ですが老将軍どの)!ニン応該給我換積荷、好マ(積荷を載せ換えてください、いいですね)」
 言ってきびすを返す周瑜の後を見てから、呂範は集まった野次馬将軍たちのほうを見て首をすくめると、お手上げと両手を上げてははと苦笑した。
 ネィガ小フォ子(あの小僧)とため息をついて黄蓋は自分の部隊の兵士のほうへ向き直り、没辧法(メイバンファ:仕方がない)と言ってから積荷を載せ換えろと声を張り上げた。


19へ続く。

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