赤壁逍遥


 長江にはいまだに風が吹かない。
 黄蓋と喧嘩をして見せた効果はもうすぐ出るだろうと周瑜は踏んでいる。
 その周瑜の前で諸葛亮は舌打ちをした。
 普段ならば大体なんにしろ応用の手を使ってくる周瑜が、今度ばかりは教科書どおりの手ばかりを出してくるからだ。
 それも教科書どおりの手をあれやこれやと組み合わせて使ってくる。
「そうだな、ここにじゃあ興覇を置く。こちらには公覆殿を置こう。興覇はすぐに出られるし、公覆殿は篭城も利く」
 へぃっと口を歪めて諸葛亮はそれじゃあここに雲長殿をとこまを動かす。
 横で見ている魯粛と呂範がふふんとうなずいたが、程普は首を振っている。
「いかんな、ここの篭城では補給路を断つことができる。ほれ、この付近は他の城から離れているから、ここの篭城は不利にしかならんし、この城を落としたからといって何が有利になるとは思えん。それならばここを囮にしてこちらに兵を待機させたほうがよほどいい」
 程普の言葉に魯粛と呂範はまたうなずく。
 周瑜もそうかとうなずいて、それではここに呂子明を待機させたらいいのではと程普に返し、程普がそうだなとうなずいた。
 諸葛亮はといえば、そうかと腕を組み、ここに呂子明を置かれたら子竜にここを落とさせようとうなずいて、魯粛が横から、それでは皇叔はここに駐留するわけですかと本陣をつつく。
 魏軍が駐屯しているのがこの襄陽にいくらかと、と色々と動かしながら、魏軍の動静を見るときの諸葛亮の目がきついことに気がついた。
 なるほど、仇敵を討つのに時間はかけてもよいが、どこまでも追うつもりではあるわけだ
 好了、算了算了と周瑜が言う。
「今日はここまで、孔明先生、一緒に酒でもいかがです」
 周瑜が言うのに、魯粛はおやと首をかしげて片方の口角を持ち上げた。
 周瑜のほうから諸葛亮を酒に誘うような日が来るとは思わなかったとうなずいて、魯粛は周瑜の幕舎を出る。
 その魯粛を捕まえたのは程普だった。
 周瑜は諸葛亮のほうに出した酒杯に酒を満たし、自分の杯にも酒を注いだ。
「来来来来来!喝酒喝酒!」
 飲んで飲んでと言われては仕方ない、諸葛亮は周瑜のほうに杯を上げ、手で覆ってぐっと飲み干す。
「不要客気(遠慮は要らん)!干干!」
 自分も飲みながら、周瑜が言う。
「孔明先生、不管ニィ対曹孟徳ゼマ様、這次是我メン孫軍跟曹軍的打戦(孔明殿、たとえあんたの曹孟徳に対する態度がどうだろうと、この戦は孫軍と曹軍の戦だ)!不要ニ対曹孟徳的感情!如果ニィ報不報仇、什マ都不関!(あんたの曹孟徳への個人的感情は要らない!あなたが仇を取ろうが取らなかろうが関係ない)」
 周瑜が何を言わんとするのかがわからず、諸葛亮は一瞬ぽかんとした。
 ふふんと笑って周瑜が続ける。
「孔明先生ナァ、看起来ニィ対曹孟徳還是好有恨(見たところまだまだ仇敵の情があるようで)。対不対(違いますか)?」
 いきなりの周瑜の言葉に諸葛亮が顔をしかめる。
「ニィ、公瑾兄呀、這是ニィ錯了(そりゃ違いますよ)。俺ナ、什マ都没有感情呀(俺は何も感情なんてありませんて)」
 諸葛亮は一瞬しかめた顔に微笑を浮かべて言い返す。
 周瑜が邪気なさげにふふぅんと笑って諸葛亮の杯に酒を足す。
「孔明先生、不要勉強(無理しなくていいですよ)。要是ニィ有感興趣的話、好好想一想バ(もし興味があったら考えてみてください)」
 想什マ(何をです)と聞きかえす諸葛亮に、周瑜がからになった酒ビンを振りながら顔をしかめて言う。
「進呉(呉に来ること)」
 何気なく言う周瑜に諸葛亮はぶっと酒を吹き出す。
 その諸葛亮に、周瑜が身を乗り出してささやく。
「没有興趣ナァ就算了バ(興味がなきゃそれでもいいんだが)。如ニィ進呉、ニィ可以用東呉的将軍メン(呉にくれば呉の将軍が使えるぞ)。要打敗曹孟徳(曹孟徳を討とうと思うなら)、要更大的軍隊(更に大きな軍隊が要る)」
 にこりと笑って提言する周瑜に、諸葛亮は後ろ向きに椅子に座るように移動して酒をもう一度呷る。その諸葛亮に周瑜はまた言う。
「但是、ニィナ(ただしあなたは)?有恨的話、就不可能冷冷静静的思考(恨みがあれば、冷静にはなれないでしょう)。ナァゼマ打敗曹孟徳ナ(そしたらどうやって曹孟徳を負かします)?」
 周瑜の言葉にむかっぱらを立てて諸葛亮が向き直り、我対曹孟徳根本没有恨(曹孟徳にはもともと恨みなんかありません)と大声で言い返す。
 周瑜は首をすくめて諸葛亮を見る。
「ニィ対曹孟徳根本没有恨、ナァ不要ナァマ大声バ(恨みがないんなら叫ばなくてもいいでしょう)」
 別の酒びんを持ち出して開ける周瑜に、諸葛亮はむかっ腹を立てたままで椅子に座りなおす。
 ふいに真剣な顔になった周瑜に、諸葛亮は首をかしげた。
「蒼天死而唯有恨、闊歩天下只有英雄、談夢朋友已世去(蒼天死して唯恨み有る、天下に闊歩するは只これ英雄、夢を談じた朋友はすでにこの世の者ならず)」
 ため息と友に小さな声でつぶやいた周瑜の言葉に諸葛亮は自分の酒を見つめた。
 しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは諸葛亮だった。
「蒼天死而誰有恨、闊歩天下有民衆、英雄之起為太平(蒼天死して誰が恨み有るのか、天下に闊歩するは民衆も有り、英雄の起きるは天下太平のため)」
 それでもあなたは、個人的な恨みを持っていると周瑜に言われ、諸葛亮は言葉を濁した。
「恨みで追いかけても、こちらが乱されるだけです。あなたのやり方では、潰すことができない。追い詰めることはできるが、恨みと恐怖がまだあるのでは曹孟徳には勝てない」
 自分の酒を見つめながら言う周瑜に、諸葛亮が唇をかみ締める。
「私には私のやり方がある」
 諸葛亮の言葉に周瑜は、それはわかると応えて諸葛亮を見上げた。
「ここは皇叔の軍ではないのです。焦らないでほしいとだけ言わせていただく」
 周瑜の言葉に諸葛亮がまた唇を噛む。
「私のやり方で曹操を打ち破ることはできないとあなたは断言した。ならば、私のやり方で曹操を打ち破ることができたらあなたは間違っていたことになる」
 語調きつく言う諸葛亮の言葉が、曹孟徳と呼んでいたのから曹操と変わっているのを聞いて周瑜は目を伏せてうつむき、それから自分よりも頭ひとつほど上背のある諸葛亮のほうに目を上げてはっきりとした声で応えた。
「私はあなたと反りが合いそうにない。だが、あなたの頭がよいのは事実だ。もし曹孟徳をあなたが打ち負かしたら、そのときには私は間違っていたと認めて膝をついて見せる」
 周瑜の言葉に、諸葛亮は机の上に置いた手を握り締めてから椅子を立って幕舎を出た。
「告辞」
 振りかえりもせずに言う諸葛亮に、周瑜は少々言い方がきつかったかとも思ったが、しかし一進一退と言うようなやり方で曹操と対峙するわけにもいかなかった。
 恨みと恐怖
 諸葛亮は周瑜に言われた言葉を内心で繰り返した。
 恨みも恐怖も、ありはしないと自分に言い聞かせた。
 それでも、時折曹操の軍に街が蹂躙された夢を今でも見る。
 真っ赤になった地面と、煙の跡。
 群馬の通り過ぎた跡と、子供の泣き叫ぶ声。
 哥哥、と叫んだのは自分で、自分も泣きながら、泣く弟を抱きしめていた。
 思い出すにつけて悔しくなる。
 あの時今の自分であったなら、弟をしっかりと護ることができたはずだと。神仙でもない限り到底無理なことだとわかっていても、それでも自分の無力さが悔しかった。
 兄の代わりにはなれないのだと、あのときに思い知ったような気がして、なんの助けにもなれなかった自分のふがいなさを、あの場に居合わせることのできなかった兄のせいにしてきた。
 冬の長江、兄もまたこの長江を見ているのだろうと諸葛亮は凍るような水を手でひとすくいして跳ね上げた。


20へ続く。

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