赤壁逍遥


 ヘイ!ニィ輸了(おまえの負けだ)!
 呂蒙に言われて甘寧がちきしょうと地団太を踏んだ。
「ナァ酒来ナァ酒来!(酒持って来い酒持って来い)」
 呂蒙に言われてしょうがねえなと甘寧が自分の幕舎からとっときの酒を持ってこさせる。
 周瑜の幕舎ではこまを使った模擬戦で盛り上がっていたが、こちらではもっと単純な遊びで盛り上がっている。
 馬上技術の競いあいである。
 雨が降っていないというだけのことで始まったそれは、いつの間にやら野次を飛ばすものや退屈凌ぎの兵士で賭けに変わった。
 自分の愛馬を走らせる絶好の機会であると呂蒙や潘璋、孫賁らが馬を連れてきて思いきり走らせている。
 運動していない馬は気性が荒くなっていて、自分の愛馬に思いきり振り落とされることもある。
「子明は小柄だから興覇よりも簡単に飛びあがれるんだろうなあ」
 孫賁の言葉に呂蒙が、小柄でも得点はあったかと言いながら甘寧の持ってきた酒を杯に注いで飲み干す。
 中国の馬上技術というのは、ただ障害越えをさせたりというだけではない。馬の手綱を固定して鞍につかまって馬の左右に自分の身体を移動したり、鞍に後ろ向きにまたがったりというアクロバティックなことまで含まれる。その上で時間を競うのだ。
 我来我来(次は俺だ)!と孫賁が叫んで誰が挑戦してくると声をかける。
 我来!と応えたのは陸遜だ。
「小柄な奴同士だな、どっちに賭ける」
 甘寧に聞かれて呂蒙がおまえはどっちだと聞きかえす。
「それじゃ俺が伯陽に賭けるぞ」
「よっしゃ、それじゃ俺は伯言だな」
 風邪ひき二人で言い、甘寧がいけ、伯陽!と声を張り上げる横で呂蒙が伯言、伯陽に負けてやるなんてことはしなくていいぞ!と大声で叫ぶ。別の場所では凌統が潘璋と賭けている。兵士の中にも、自分の兜を逆さにして金を集めているものがいる。
 ジァッ!と言う声とともに、孫賁の馬と陸遜の馬が走り出す。始めのうちは馬の首を思いきりひきつけて手綱を左手に巻きつけ、右手で鞭を振り下ろしていたが、途中でその手綱を鞍に固定して陸遜が先に身体を浮かせて馬の右脇に向かって大きく回転する。それから孫賁が馬の上に倒立をするように逆立ちして鞍に逆向きにまたがる。
 右脇から左脇へと大きく身体を振って陸遜が身体を固定する。
 孫賁が馬の右脇に寄り添い、陸遜が鞍に逆向きにまたがる。
 最後の走り込みで、もう一度手綱を大きくひいて柵越えをさせて二人がほぼ同時に馬を着地させる。
 鼻差で孫賁のほうが早かった。
「バカ伯言!」
 本気で悔しそうな呂蒙の声に孫賁が息を切らしながらそれでも大笑いしている。
「伯言!ナァ来ナァ来!我要ニィ帯来的之中最好的呀!(おまえが持ってきた中で一番いいのにしろよ)」
 孫賁の注文に潘璋が笑う。
「エィエィエィ!伯陽、ニィ別欺負伯言ォ(伯陽、伯言をいじめるなよ)!」
 甘寧の野次に陸遜が我被伯陽兄欺負了ァ(いじめられたぁ)!と笑いながら言って孫賁に殴られている。
 陸遜が持ってこさせた酒を壺のままで飲む孫賁に、陸遜がそれはない!と抗議したが、所詮敗者は敗者である。
 黄蓋だけが出てこない。
 将軍たちはそろって黄蓋の幕舎のほうを眺めやる。
 さすがにあれだけ言われてはと首を振ったのは潘璋だ。それに同調するように凌統がうなずく。
「らしくなかったな、今回はどちらも」
 どちらもというのは、もちろん周瑜と黄蓋である。
 穏やかな人間が切れると怖いねとつぶやいたのは孫賁だ。
「まあねえ、ボケと言われてその上もうろくの使い物にならないジジイ扱いされたら公覆将軍でなくとも頭にはくる」
 甘寧の感想に、孫賁が、誰もそこまでは言ってませんよと突っ込み、甘寧はあれと首をかしげた。
「使い物にならないという一言を今故意に付け足さなかったか?」
 呂蒙に言われて断じてそんなことはないんだがと甘寧は頭をかいた。

 その黄蓋は現在夜行性になっている。
 早くと声をかけられて黄蓋隊の古参の兵士たちが油を染み込ませた萱を舟に無言で積みこむ。
 古参兵のひとりが、黄蓋の耳元に本当に投降するおつもりですかと小声で問いかける。
「確かに公瑾将軍の言いようもあまりのことですが、しかしこれまでずっと孫軍に仕えてきたのですから、此度のことは後で主公に言えばよいことでは」
 兵士のどこか笑いを含んだ声に、黄蓋は自分もくつくつと押し殺した声で喉を振るわせる。
「どこのバカが枯草を積んで投降するんだ」
 黄蓋のささやく言葉に、兵士はそれではと声を弾ませた。
 もちろんと黄蓋の言う声に、兵士は納得したようにうなずいて策士ですねとつぶやき返した。
「おまえならば信用もおける。明日の夜にはもう一芝居打たなくてはならん」
 にこりと笑って言う黄蓋に、黄蓋の下にもう十年も居るだろうかという古参の兵士はお任せくださいと拱手した。
 燎も遠いところで萱を積みこんでいる兵士の姿は、非常にあやしい。
 翌夜、黄蓋はその兵士を幕舎に呼びこんで大声を張り上げた。
「小僧がでしゃばりおってからに、長幼の序というものを知らんのだな、あやつは」
 黄蓋の言葉に兵士がまったくとうなずいて返す。
「それ、老林、おまえも飲むがいい。近いうちにここを出てやろうぞ」
 その言葉につられたかのように老林と呼ばれた件の兵士が呼応する。
「それでは将軍、曹孟徳将軍の元に向かいますか」
「そうだ、おまえ、曹孟徳はもう将軍ではないぞ。大漢の丞相ぞ!」
 酔ったように声をあげる黄蓋の幕舎に、失礼をと言って若い兵士がひとり滑りこんだ。
 それを見て黄蓋と老林がにやりとお互いの口角が上がるのを見た。
「老将軍、翻意ありと露見すれば老将軍に都督がもういちど腹を立てましょう。もし、翻意ありとするならば、ここは私にお任せいただけますまいか」
 かかったなと黄蓋は内心で快哉を叫んだ。
 もう一方の幕舎では、周瑜がこちらも若い兵士につかまっている。
 公覆将軍に翻意有り
 兵士の言葉に周瑜がふむと首をひねり、横に控えている程普のほうへちらりと目を流した。程普が首を振る。
 徳謀将軍はやはり欺けなかったかと周瑜が内心で苦笑する。
 あの大喧嘩の日に、まったく二人とも柄でもないことをしよってからにとあきれて首を振りながら周瑜の幕舎を訪れたのはこの程普である。
 さすがに20年も観察されてはいなかったと周瑜が首をすくめたのは言うまでもない。
「なるほど、公覆将軍が、自身の口でそう言ったのをおまえ聞いたのだな」
 対(そうです)と応える兵士に、周瑜は畳み掛けるように言葉を挟む。
「ならばおまえ、これから公覆将軍が魏軍に行くと言ったことまで聞いたのか、それともおまえの推測か」
 兵士が、俺親耳聴了(自分で聞きました)と応える。
 周瑜と程普が目を合わせた。
 好、と言ったのは程普である。
「下がっていい」
 程普の言葉に逡巡したように周瑜を見上げ、周瑜がうなずいたのを見て兵士は幕舎を出た。
 見張りの兵士に、若い兵士が本当に戻っていったことを確認させ、周瑜はくっくっと幕舎にかけた入り口の幕を閉じて笑った。
 程普もくっくっと喉を鳴らして笑っている。
「手落ちがありましたね」
 周瑜の言葉に程普がまったくとうなずいた。


21へ続く。

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