赤壁逍遥


「焦るなよ、焦るな、焦れば負けよ」
 周瑜は自分に言い聞かせた。
 一緒に碁を打っていた妻が少し微笑んだ。
「私の勝ち。老公(あなた)、心配事でも?」
 周瑜は碁石を放り出して椅子から立ちあがると、牀に転がり、肘をついて妻の方を見やると鼻を鳴らして見せた。
 ふてくされたように苦虫を噛み潰したような顔をして見せた夫に、妻はほほと笑った。
 実におとなしいようでいてこの妻にはまったく敵わない、と周瑜は身体を反転させる。
 妻は遊んでいた碁石を片付けて夫の横に腰掛けた。
 老公と呼んでもふてくされて返事をしない夫に、妻は耳をつねるように夫の上半身を起こして顔を覗きこむ。
「この間も琴の音が乱れてた。老公が楽器を弄っているときに怒ったような顔で、琴を爪弾きながらも一曲を弾ききらないのは他に気がかりがある証拠」
「おい!痛い痛い痛い!わかった!すまん!」
 周瑜の悲鳴が上がるときには、家人はほとんど周瑜の部屋に近寄らない。
「この色好き!」
「違う!誰が色好きだ!このばか!」
「誰がバカですか!」
「おまえだ!」
「何ですって!このバカ!」
「ばかばかばか!」
「あほあほあほ!」
 犬も食わない夫婦喧嘩は毎度のことで、声が止んだのを確認すると侍女は茶をくんで部屋を訪れた。
 声を張り上げて怒鳴りあい、牀の上に倒れこんでいた夫婦は卓上に置かれた茶器をとるとそろって小さな茶杯を一気に干した。
「疑うな。女なんかいない。戦だ」
 妻がまた扇で夫を叩く。
「私より戦が好きなんだ!そうなんだ、ん?あなた!」
「当然だろ!あ、いや。戦は国家の大事、違うか?そして私は前部督だ。わかるだろう、私の手の中には呉軍の兵士の生命がある。それから?国家の命運の一部分も私の手の中だ」
 主張し終え、あきれてなにも言い返してこない妻の刎然とした様子に周瑜はにやにやと笑いながらおやすみと声をかけた。
 妻が部屋から出たのを見届け、周瑜はもう一度ごろりと牀に横になった。

 後漢末になって戦乱は漢の版図を荒らすだけ荒らした。
 群雄一堂に会し、国内にはかなり多くの勢力が興亡を遂げた。そのなかで勢力を最終的に競っているのはこの呉、そして北の魏の二大勢力だ。今は自領を持っていないとは言えどしぶとく魏と対抗している劉備を考えても大勢力は三つ、絞り込まれてきたなと周瑜は指を折る。
 勢いで版図を延ばして天下を取ろうという戦はできないだろう。勢いで他の勢力を排除できたのは時代に勢いがあったからだと周瑜は思っている。
 ここから先は智謀の争いが重さを増してくる
 考えて周瑜は寝返りをうった。
 おもしろい時代に生まれたものだ。この目で天下を見ることができる。いわゆる「馬上に天下を看る」というやつだ。幼馴染と見てきた夢だったが、長年ともに天下を語らってきた友人はすでに世を去った。
 俺は天下を拝んでやるぞ、伯符
 呉主として名を馳せ、それ以上に江東の快男児として討逆将軍の名を冠した幼馴染の名を周瑜はつぶやいてみる。
 聞くところでは、孫権は魯粛を荊州へと遣いにやったという。
 魯粛が劉備と手を組むべきであると上奏したそうだが、やはり子敬はなかなかの策士だと、周瑜は牀の上に起きあがってあぐらをかいた。
 以前に魯粛は周瑜に蔵を一つ提供している。その伝手で周瑜が魯粛を文官にと推したのだが軍師に入れるべきであったかと今になって周瑜は嘆息した。なにも軍師が武官である必要はない。魏では軍師の大半が文官として名を列ねている。ここまで考えてから周瑜は唸った。
 どうも解せない。
 曹操という男は「治世の英雄、乱世の奸雄」といわれたと聞く。
 兵法書を自ら解し、孫子に注をつけるほどの男がこの時期に長江まで出てくるのはどういうことなのか。それほどの策があるのか、それとも全くの誤算で突き進んできているのか。一対一で手を合わせたことのない相手の出方がまったくわからない。
 官渡の戦で背後を突き損ねた敵は、その戦で中央に勢力を伸ばしていた袁紹を破り、中原に大勢力を築きあげた。ともに悪戯をした曹操と袁紹は幼馴染であったと聞く。
 同じ幼馴染でも、ともに天下を誓った伯符と俺のような関係とはまったく違うのだな
 奇妙な感慨に襲われ、周瑜は転がった。
 今ごろ魯粛が劉備を説得しているのだろうと考えながら目を閉じ、そのまま寝てしまったことに気づいたのは翌朝だった。

 呉水軍の錬兵を完璧にこなしているという自信は一応ある。
 荊州水軍が魏軍麾下にあろうと、そんなものはちょっと唆せばすぐに崩れる脆い兵士でしかない。いや、たかをくくってはいかんぞ、周瑜、追い詰められれば窮鼠も猫をかむ
 朝から地図を広げて唸る夫に、妻は音をたてて椀を置いたが、それでも夫は気づかなかった。目の前で顔をしかめて舌を出しても気のつかない夫の粥を手付かずのまま下げ、妻は自分の粥を音をたててすすった。
「昨日のことにしても、老公のことは気にしてないから安心してよ、気にしてないけど戦になれば老公は先鋒の将軍で出るから、いつ死んでもおかしくないと思っただけ。気にしてなんかいませんからね」
 子供のようにふてくされて言ってみせたものの、夫はやはり気がつかない。
 妻はふんと自分の椀を置くと、また舌をだして夫の方に身を乗りだした。
「このトウヘンボク」
 顔をあげ、周瑜は手元を見る。粥が下げられていることには気がついたが、あとで厨房でつまみ食いをしてこようと考えてそのままに妻の方をむいた。
 やっと気がついたと言わんばかりに妻は夫から地図をとりあげて床に放りすてる。
「誰がトウヘンボクだって」
「あなたに決まってるでしょ」
「へ、俺がトウヘンボクならおまえだってトウヘンボクの妻じゃないか」
「あなたが戦で死んでも私は泣いてなんかあげませんからね」
「戦の前に不吉なやつだな。俺が生きて帰って来るたびに心配したのって泣いてすがりついてくるのはどこの誰だ」
「あらそうね、南昌の栗さん、それとも会稽の李さんだったかしら。ああそう、盧江の尤さんもいた」
「おまえ古い名前をよくそう次々と。それは恋文をもらっただけだし何もなかったといっただろうが。俺だって女の子からの果物なんか山ほどもらっていたんだぞ、これで」
「あら、あたしだって殿方から送られた玉の数なんて数えきれなくてよ」
 毎朝毎朝よくやるものだと、周家の使用人はあきれるしかない。
 老陳は、周瑜の言いざまがなんとも中年のもてないおやじの言い訳じみていることに、これが呉郡の美周郎だとはと情けなくなった。
 これを戦のたびに繰り返すのだから仲のいい夫婦である。
 声の止んだ一瞬を見計らって侍女がささっと茶をくむと、やはり周瑜も妻もそれを一気に飲み干してしまうので、侍女はすこしの間この険悪ながらお互いの意思を確認しあうような雰囲気の中で立ちつくすことになる。
 この日の救いの手は周家の長男だった。
「ぱぱ、こんどはどこ行くの」
 しっかりと周瑜の着物の帯をにぎって周瑜を見上げている子供を見つけると周瑜はばつが悪そうに苦笑いをして息子を抱き上げた。
「また戦なの」
 心配そうな息子の言葉に思わず彼は言葉に詰まった。
 自分や孫策は孫堅が戦に出ると聞くと内心に武勇伝を期待して心弾ませたものだが、息子は妻から戦のこわい話を色々聞かされているのだろう。
「心配しなくていいんだよ。ぱぱはきちんと帰ってくるから。いつも帰ってくるでしょう」
 なだめるように周瑜が言うと息子は無言で首に抱きついた。


3へ続く。

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