赤壁逍遥


 風が吹かない
 周瑜は対岸の魏軍を眺めた。
 上風が得られない
 曹操の軍ではすでに疫病が発生したと聞く。
 あとは、勢いに乗じて火をかけることができればと周瑜は嘆息する。
 程普もそれに納得しているが、魯肅だけは腕を組んで大きく息を吸い込み、それからまた息を大きくつきながら同じように対岸を眺めた。
 典型的な教科書のやり方だなと魯肅は思ったのだ。
 さては周瑜も呂蒙の左伝に触発されたかと苦笑して、軍事的な計画は任せておこうと大きく息をついてから魯肅は自分の幕舎に戻った。
 この魯肅という男、政治的戦略には長けているが、軍事戦略は苦手だと自分で言う。
 魯肅が思うに、国内で人民を鼓舞するために必要なものは、仮想敵国である。
 その仮想敵国、この場合には実際に干戈を交える敵なのだが、その対象は呉にとって魏であろう。だが、曹操の勢力は強く、国内の一般庶民は呉一国での戦では賛同するとは思えない。その理由の一端を担うのが、呉の徴兵制度である。呉では漢の制度を踏襲した徴兵制度が採られているが、租庸調を減らすかわりに兵役を増やすというやり方は庶民の間では歓迎されていない。この戦では正規兵ばかりの編成であるために脱走兵は少なくすんでいるが、大軍を導入するときには臨時に米穀を徴収し、更に男手を徴収することになる。それでは庶民が戦に反感を持つのは当然なのだ。
 その庶民に向かって魏と戦うのだと言ったところで彼らにしてみれば自分たちの被害が大きくなるという被害者意識しか出てこないという結果になりはしないかと魯肅は心配している。
 そのときに、劉備の勢力が役に立つのだ。
 一国対一国の戦となれば反抗する庶民ではあっても、二国対一国であれば説き伏せることが楽になるのだ。ついでにいえば、劉備の皇叔という立場もここで効いてくる。未だに残る、結局は孫呉も漢から朝廷を簒奪しようというのだという一部の批判も、劉備が劉姓であることで言い訳が立つ。
 朝政に関わらない庶民には、自分の所の国力や同盟国の国力というものは不明確なものでしかなく、同盟国も兵を出すのだと言われればそれで納得するものもいる。
 おそらくは諸葛亮もそれを考えているだろう。
 諸葛亮にとって、呉という国は防波堤なのだ。
 今後、荊州の一部を劉備がとれば、そこから先の政治抗争は魯肅と諸葛亮の火花が散ることになるだろう。
 暇つぶしの書を手に取りながら考え、魯肅はちらりと自分の牀でふてぶてしく寝転がっている諸葛亮を見た。
 上着を頭からかけて寝ている諸葛亮の様子はただの阿呆にしか見えなかった。

 程普、黄蓋、韓当の三大長老曰くところの呉のガキ大将のひとりである甘寧は、背後の殺気にくるりと振りかえってへっへっと笑った。
 小僧が無事にくっついてきたか、ちょこっと遊んでやるかね
 背後の凌統は、そんなことはお構いなしに甘寧の後にくっついて草むらのほうに歩いてゆく。
 他上厠所マ(便所か)?
 オヤジの立ち小便も見たいもんではないなと思ったが、そんなあほなことをちらりと考えていた隙に甘寧の姿が見えなくなって凌統は慌てた。
 草むらを掻き分けて甘寧を探す凌統の目の前に、草むらにしゃがみこんでいた甘寧がいきなり立ちあがって見せる。
 ぎゃあぁぁぁぁぁっという凌統の悲鳴に、機嫌よく自分の陣を見まわっていた呂蒙がすわ一大事と走り出す。別の陣では周泰が剣を抜き放って陣中の兵士に、持ち場を離れるなと命じる。韓当は眉をひそめて焚き火の火を消させ、黄蓋はあくびをしたところで驚いて空気を飲み込んだ。陸遜が魏軍の動静を見るために物見櫓に駆け登り、孫賁が自軍の船を全て整えさせる。そして見まわりを終えて幕舎にもどった潘璋が茶を吹き出して前にいた兵士が被害にあった。もっとも他の将軍たちと同じように陣中を見て回っていた呂範、程普、周瑜は落ち着いたもので、悲鳴が凌統のものだけであることで安心してため息をついた。
「小孩子不聴話、被老頭批評了ァ(お子様がおイタをして、オヤジさんに怒られたな)」
 間延びしたような呂範の言葉に周りの兵士がどっと笑う。
 本陣では程普があきれ、周瑜が首をすくめている。
「真是的(まったく)」
「程公、別関他バ(程公、気にしてはいけません)。雖然他是個将軍、但他也還小孩子ォ(たとえ将軍とは言え、彼もまだ子供です)」
 周瑜の言葉に、ニィ也是的(おまえもだ)と言って程普は周瑜の鼻をつついた。
 こういう程普が、周瑜は好きである。
 程公につつかれてしまった。これは、一種の愛情表現なのだろうか?それとも遊ばれているのだろうか?
 ぽかんと程普を眺めて立ち尽くし、周瑜は首をかしげた。
 妙なところで鈍感な周瑜には平時程普が逃げ回っていてもまったく関係なく、追いかけっこ程度にしか感じない。やはりこの周瑜という男の感覚は微妙に鈍いようである。それともあるいは非常にしつこい性格なのか。どちらにしてもこの陣中に将帥としている以上、変人の仲間入りをしていることは確かだろう。
 まったく凌統の悲鳴を意に介さなかったのは魯肅である。
 あの悲鳴はという諸葛亮の言葉に、お気になさらずと持っていた本を置きもせずに魯肅は言った。
 凌統の元に駆けつけた呂蒙はあまりのばかばかしさに走ってきた自分が情けなくなった。
「這個老頭シャァ死我了ァ(このオヤジ驚かせやがって)!」
 草むらにひっくり返って甘寧に罵声を飛ばしている凌統に、いったいなにがあったのかを呂蒙は即座に理解したのである。これは勉強の成果ではなく単なる本能だ。
「公績、又是ニィマァーッ(またおまえかー)!」
 後ろから呂蒙に怒鳴られて凌統が耳をふさいで振りかえった。
「不是我、是這個老頭干的ヤ(俺じゃない、このオヤジがやったんだ)!」
 凌統の言葉に、甘寧がおどけたように笑って首をすくめる。
「不好意思、我想要把這個孩子吊下来而已ョ(すまんな、ちょっとこいつを吊るし上げてやろうかと思っただけだ)」
 甘寧の言葉に呂蒙は納得したようにうなずいて凌統をちらりと見てから、一言甘寧に返す。
「我幇ニ的忙(手伝ってやろう)」
 呂蒙の言葉に凌統が真っ青になる。
 凌統の前に仁王立ちになる将軍二人。
 さてどうしようかと腕を組む甘寧に、呂蒙が肩をつついて耳打ちをする。
 好像ニィ自己負殺了他父親的責任。看起来ニィ努力替公績的父親様子ォ(父親を殺した責任を自分で引きずっているようだ、オヤジさんになろうと努力しているように見えるぞ)。
 呂蒙の言葉に、ははと笑ってから口元を覆って小声で呂蒙に耳打を返す。
 是ニィバ、看起来ニィ替他的父親保護公績的様子(そりゃおまえさんだよ、見たところ公績の親父さん代わりに奴さんを保護しているようだ)。
 甘寧の言葉に呂蒙が肩をすくめる。
 ぽんと呂蒙の肩をたたいて甘寧は凌統を親指でさす。
「任せる」
 甘寧の一言に、呂蒙は片眉を上げて見せた。
「はいよはいよ、全部任しとけや」
 にやにやと笑って答える呂蒙を置いて甘寧がきびすを返す。
 ほっとしたのは凌統である。
「くそオヤジ、くそオヤジ、くそオヤジ」
 甘寧の後姿に向かってあかんべをする凌統に、呂蒙はため息をついた。
 どうも凌統が、甘寧の自負を理解するまでには時間がかかりそうだと思ったのだ。
 甘寧が後ろを向きざまに言った言葉が呂蒙を苦笑させる。
 好帥ォ、子明パパ(かっこいいぞー、子明パパ)
 ニィ也蛮帥地ラ、興覇パパョォ(あんたもかっこいいよ、興覇パパ)
 内心でそう言い返したが年齢的に「パパ」ではなく「グーグ(お兄さん)」と言ってほしかった呂蒙であった、しかしそんなところまでは甘寧が気がつくはずもなかった。
「公績ー」
 呂蒙に呼ばれ、呂蒙になついている凌統は是!と元気よく返事をする。
 凌統の返事を聞いて呂蒙がちらりと凌統を見る。
「ニィ干什マァ(なにしてるんだ)?」
 呂蒙に聞かれてはてと凌統は首をかしげた。凌統の様子に、たたみかけるように呂蒙が怒鳴る。
「ニィ快点回去看看ニィ的陣内バ(さっさと戻って自分の陣を見てこないか)!」
 呂蒙の怒声に首をすくめて凌統がさかさかと陣のほうへ戻る。
 廷麻煩地小弟弟ョ(手の焼けるおちびめ)
 ふうと息をついて呂蒙は口元で笑う。
 かつて程普が周瑜に、孫策が呂蒙にくっつけた評価を呂蒙は凌統にくっつけることになったようである。
 呂蒙が見上げた空は青く澄みきって、雲ひとつない高みに雁の一団が並んで飛んでいた。


23へ続く。

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