赤壁逍遥


 凡そ敵と江湖の間にて戦をするに、必ず舟楫有り、上風、上流に居るべし。上風とは順風なり、火を用いて以ってこれを焚く;上流とは、勢いに随うなり、戦艦をして以ってこれに衝す、則戦に勝たざる無し。法に曰く:"戦に勝たんと欲するものは水流を迎える無し。"
(明、劉基『百戦奇略』舟戦の段より)

 呉の旗が翻る。
 風が吹いた。
 魯肅は魯の旗を見上げた。
 風だ!
 叫んだ声は、あれは蒙ちゃんの声だなと思って魯肅は苦笑する。
 陣中で、魯肅は回りにいる兵士をみまわした。
「戦だ、暴れる準備でもしておけ」
 魯肅の言葉に、前回出番なしで鬱々としていた兵士たちがわっと魯肅を囲んだ。
「それでは校尉、今度は打って出るのですね」
「今度は俺たちも蒙衝闘艦を出すのですね!」
 こりゃ、相当鬱憤がたまっていたなと魯肅は珍しく一歩退いてしまった。
 諸葛亮はといえば、魯肅の陣内、周瑜の陣内とあちらこちらにふらふらと顔を出している。
 その諸葛亮にまとわりつかれて周瑜はちらりと、自分よりも頭ひとつ背の高い青年を見上げた。
「なんで俺についてくるんだ」
 周瑜に聞かれて諸葛亮は自分の筆を指にひっかけて回しながらうむと軽く唸る。
「一番絵になりそうなもんで」
 諸葛亮の返答に、周瑜は対岸をあごでしゃくって見せる。
「あちらには絵に詩をつけてくれる将軍がいるぞ」
 周瑜のこの言葉には、諸葛亮は首を振った。
「俺が曹操嫌いなのをご存知でしょう、将軍。いい絵じゃないですか、若将軍の舟戦。できたら将軍の奥様に送ってさし上げますね」
 諸葛亮がひとりでうなずくのを見ながら、周瑜はいらんわとつぶやく。
「風が吹いたのに戦闘準備もしないんですね」
 余計なお世話だと周瑜は内心で諸葛亮を殴る。
「準備はもうしてある。あとは段取りだけです」
 その周瑜をみながら諸葛亮は残念だとつぶやく。
「今度は何だ」
 あきれたように聞く周瑜に諸葛亮はまた首を振る。
「益徳将軍がいないのが残念なんです」
 周瑜は下にあった石にこけつまづいた。
「なんでここで張益徳将軍が必要なんですか。呉軍の甘興覇と周幼平では不足ですか」
 大丈夫ですかと周瑜に手を貸しながら、諸葛亮は首を傾げる。
「甘将軍と周幼平将軍は美人画をお描きになるので?」
 は?と周瑜は首をかしげた。
 どこの誰が美人画を描くだと?
「俺が残念だと言ったのは、見目のよい将軍が火計をやるのだから、さぞかしいい絵になるだろうなと思っただけで、それを見たら、益徳将軍がきっと絵にしたがるだろうなと思ったんです」
 やはり劉備軍には変な人間がそろっていると思った周瑜である。これはひそかに趙雲にご同情申し上げると。
 君主は草鞋編み、将軍のひとりは酒飲みの画家、軍師はどこかボケた文人青年、残るは関羽と趙雲。しかしあの張飛に美人画描きなどという趣味があったとは、世の中意外なことはいくらもあるものだ。
 そこまで考えて周瑜ははたともう一度首をひねった。
「なんで美人画で俺が題材になるのだ?」
 周瑜の問いを、諸葛亮ははっはっはと笑ってごまかした。
 内心で、どう考えても劉備では才子佳人の絵の類にはならないからだとつぶやいて。

 魏軍では、黄蓋からの投降を申し出る使いの兵士が曹操の前に出ている。
「漢丞相、曹孟徳将軍には、我が主黄蓋よりの文を託ってまいりました」
 兵士からの文を受け取り、曹操は苦笑する。
 横にいた程cが顔をしかめる。
 程cを手招きして曹操は文を見せる。
 あれはなんという将軍かと兵士は内心で首をひねる。
 この程cという男、文人にしては背も高く、がっしりとした体格の持ち主である。
 曹操が男を仲徳と呼んだことで、兵士は合点がいった。
 あれも軍師か。あの男に匹敵するのは、様子から見れば魯子敬校尉あたりかな
 兵士の胸中での軍師比べなど曹操の知るところではない。
 文を一読した程cが、いけませんと慌てて曹操の前に出て膝をつく。
「丞相、表に出てごらんになりましたか。今風は逆風、呉軍は風上を得ております、このようなときに投降を申し出てくるというのは、丞相、今一度お考え遊ばされませ」
 兵士が内心で唇をかむ。
 このオヤジと内心で程cをにらみつけてから、そのようなことはございませんと兵士は曹操にもう一度拱手する。
「風上を得た今投降を申し出ましたのは丞相閣下を欺くためではございません、都督を勤めている若造を欺くため。風上を得た以上、先鋒を務める黄蓋が申し出れば周瑜もあっさりと我が将軍に舟を出させるでしょう。なれば、投降もそれだけ楽になるのです。丞相閣下、我が将軍が、あの青年のどれほどの仕打ちにあったか、お聞きお呼びでしょう。積荷を間違えたというだけで用なしと罵声を飛ばすのです。それも他の将兵が居並ぶ中で。どれほどの侮辱であったことか」
 兵士の言葉に、程cはそれでも首を振る。
「丞相閣下、ここに奉孝がいたならば、奉孝とて私と同じように言うことは間違いございません。これは、謀でございましょう」
 兵士が首を振る。
「閣下がお受けくださらなければ、私の首が飛ぶのです。伏してお願いいたします、お願いです、閣下!」
 劉備の軍が後方にある。おまえはどうする、徐元直
「元直」
 曹操に目を向けられて、徐庶は首を振って程cの横に膝をついた。
「もし私が敵陣にいて戦略を立てていればと考えれば、投降を受け入れるべきではございません」
 徐庶の言葉に兵士は内心で目を見張り、ちらりと徐庶を見る。
 話しが違う、この男は劉備に義理立てをしていたのではなかったのか
 ですがと言葉を続けた徐庶に、程cが舌打ちをする。
「投降を受け入れるか否かは全て閣下にかかっております。私どもが反対したところで丞相がお受けになるのであれば無用のこと、また、私どもの進言で閣下が投降をお受けになることをあきらめるのであれば、私どもは続けて進言を繰り返します」
 横に膝をついた徐庶をちらりと見て、忠義なことだと程cはつぶやいた。
「おまえ、黄公覆の忠義を見てみようではないか」
 くっくっと笑いながら言う曹操に、兵士は背筋がぞくりとしたが、それでも謝閣下と言って曹操の幕舎からさがった。
 兵士が立ち去ったのを見て、曹操が程cと徐庶を見る。
 策を献じることをしないという決意は翻ったかという曹操の言葉に、徐庶はきっぱりと否と答えたが、献策をせぬとは申しましたが、助言をせぬとは言っておりませんゆえと続けた。
「若造と言ったが、その若造の手を見てみようではないか」
 曹操の言葉に徐庶が目をむいた。
「そのためだけに、これだけの兵士を見殺しになさる。孫呉の舟戦の腕を確かめるためだけにどれほどの兵士が犠牲になるとお思いです。ある兵士は前哨戦で命を落とし、ある兵士は疫病で命を落とす。孫呉の手を確かめるためだけに、それだけの犠牲が本当に必要なのですか。犠牲の兵士の家族が、どれほど閣下を恨むことになるか、おわかりのはずです」
 徐庶の口を慌ててふさいで程cが徐庶を幕舎から引きずり出した。
「おまえさん、命が惜しくないのか」
 程cの問いに、徐庶は命が惜しくて従軍なんぞできるものかと、さすがに武将としての従軍経験を持つ人間の感想を程cに投げつけた。
 頑固者め
 程cはため息をついた。


24へ続く。

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