赤壁逍遥


 燎が明るく長江を照らす。
 真っ黒い長江に、白とも橙ともつかない光の影が揺れている。
 風は南東、南岸の呉軍が風上を取った。
 手番が回ってきたとばかりに、周瑜は小型の蒙衝闘艦を長江にずらりと並べあげる。
 先鋒の黄蓋隊がドオンと大きく銅鑼を鳴らした。
 江上を、すべるように黄蓋隊の舟が進む。
 曹操の艦からそれを眺めていた程cが、はっとしたように舌打ちし、横にいた徐庶があきれたように息をついた。
 それ見たことか
 二人の胸中で、計らずも同じ言葉がつぶやかれる。
 この徐庶という男にとって、程cという男は母の仇と言ってもいい。
 だが、得意とするのが戦略という同一分野である以上、徐庶と程cの行動範囲が同じ所にくるのは仕方がなかった。
 徐庶という男は、そもそも劉備の元に居た男である。自分でも剣をふるう武人方の軍師で、徐庶の智謀を見た曹操が程cに命じて謀を巡らせて魏につれこんだのである。
 以来徐庶は、劉備への義理立てか、献策はしないと言い続けてきた。
 それでも従軍軍師のひとりにはいっているのは奇妙なことだと、徐庶はときたま自分で首をかしげている。
 魏軍の兵士から見て何かの祭りでも始まったかのようなその光景は、呉軍の将軍たちにとってたしかに祭りなのである。
 呉軍陣営から、ドオンドオンと銅鑼の音が響いてくる。
 調子をとるようにだんだんと早くなるその銅鑼の音は進軍命令の銅鑼でしかない。
 魏軍の艦の上で、程cと徐庶が同時に叫ぶ。
 敵襲!
 重なった声に、程cと徐庶がお互いの顔を見て、それから程cが足早に自分の甲冑を鳴らして曹操の元へと階段を駆け上がる。
 いくら舟に慣れているといって、あの速さは尋常ではない
 徐庶は同じ艦に居るはずの蒋幹を探した。
 蒋幹は比較的南の出身であるため、南の船が通常どれぐらいの速さで進むことができるかを知っているはずなのだ。
「子翼兄!もしも重荷を積んでいたとしたら、あの蒙衝闘艦はあれだけの勢いがつくか」
 珍しい徐庶の問いに、蒋幹は前方を見る。
 目を凝らして黄蓋の蒙衝闘艦を眺めて蒋幹は首を振る。
「ありゃ蒙衝闘艦でしょう、兵士満載であれだけの勢いが出るとしたら、江東の船というのはバケモンでしょうな」
 答えてから蒋幹は、あれだけの船団を指揮するというのだから周瑜も出世したもんだと内心でつぶやいた。
 蒋幹、字子翼。
 彼は周瑜の同門の友人である。
 黄蓋の艦隊を見て、友人にくっついておけばよかったかと蒋幹が首をすくめたことを徐庶は知らない。
 程cの方は、曹操の横についてやはり謀られましたぞと語調を荒らげている。
 自分の艦から黄蓋隊を眺め、周瑜は横にいる兵士が声をかけるのを片手で抑えた。
「もう少し待て」
 黄蓋の艦隊の燎が、魏軍船にぶつかり、火の粉を散らしたようにぱっと一瞬明るく燃えて、それから魏軍の蒙衝闘艦に火が燃えうつる。
 黄蓋が叫ぶ。
「かかれ!」
 おうという兵士の声に、銅鑼の音がいっそう早くなる。
 周瑜の艦隊からドオッと銅鑼が鳴らされ、本隊の将軍たちがいっせいに舟を出す。
「再起不能にしたれぁ!」
 周泰の声に、よっしゃと兵士たちが声を上げる。
 甘寧の艦では、甘寧が剣を抜き放って魏軍を指し、これが本番だと兵士を鼓舞する。
 凌統は、となりの甘寧艦隊に負けじと声を張り上げている。
「曹孟徳の首級をあげろぉ!」
「生きて帰れば恩賞がでるぞ!」
 と、これは呂蒙である。
 やはり彼の場合は初めの「虎穴に入らずんば虎子を得ず」が尾を引いているようである。もっとも実は兵士の鼓舞に、これ以上効果的な言葉もない。
「行くぞ!」
 子供のような周瑜の声に程普はあきれ返った。
 還是小孩子(やはり小僧か)
 魯肅艦隊では魯肅が、思いきり暴れてやれよと腕まくりをしている。
 魏軍艦隊と衝突して、まず甘寧が魏軍の蒙衝闘艦に飛び移る。
 続いて呂蒙、凌統。周泰はその蒙衝闘艦の間を縫って本艦隊を目指す。
 孫賁、潘璋、呂範が呉軍本艦隊の後方援護に立ち、陸遜がそれに従う。
 あっと声を上げたのは程普である。
 周瑜をつないでいた首輪が外れた。
 周瑜は自分の剣を抜き放ち、縄をつかみ上げると適当な魏軍艦を見つけてそのマストに縄を引っ掛けて三階建ての呉軍旗艦から飛び降りて行ってしまった。
「這個シャァ瓜子!ゼマ連ニィ也突撃去(このばか!おまえまで突撃していってどうする)!」
 都督が勝手に突撃していくんじゃないと程普はもう一度怒鳴ったが、その周瑜はすでに魏軍の蒙衝闘艦の上で魏軍兵士を蹴り倒しにかかっている。
 シャァ瓜子(バカタレェ)!
 程普はもう一度叫んだが、周瑜にはもはや聞こえていないようである。
 辛苦ニィ了という兵士の言葉に、程普はふんと鼻を鳴らして算了バ(もういい)と言い放った。
 それにしてもと程普が眺めて唸ったのは、やはり魯肅である。
 ざんっと水飛沫を上げて進んだ蒙衝闘艦から魏軍の蒙衝闘艦に勢いよく乗り込んで、魯肅という男は自分の白刃を閃かせた。
 ぎんっと魯肅に睨まれて、魏軍の兵士が後ずさる。
 剣を握ったこともない文人だと侮っていたのに、あの男は初陣でもないなと程普は自分の剣を握って魯肅を眺める。
 ハィッという掛け声と共に、将軍たちが蒙衝闘艦の上を飛び歩きながら魏軍の艦隊に斬り込んで行く。
 甘寧の鈴がしゃらんと煌くような音を立てて鼓角の中に響く。
 両脇から魏軍兵に挟まれた周泰は、瞬間身を前にかがめると両ひじを思いきり後ろに張るようにして兵士の鳩尾に叩き込む。
 呂蒙の白刃は魏軍兵の血と、燃え盛る炎に照りかえって紅く染まり、凌統の刃は次々と魏軍兵を長江へ突き落として行く。
 初陣ではないが、実践経験は少ない
 魯肅の剣を眺めながら程普は唸った。
 流れるような剣は実戦で培ったものには見えない。
 誰かという叫び声に韓当ははたと立ち止まった。
 あれは公覆の声に聞こえたが
 首をかしげて韓当はあたりを見まわす。
 兵士があらかた韓当に蹴散らされた艦内に、これという兵士の影は見当たらない。
 もう一度首をかしげて耳を澄まし、韓当はあっと叫んだ。
「公覆兄!」
 黄蓋のうめき声を頼りに韓当は艦内を歩き回り、そして血まみれの黄蓋を発見した。
 厠にはまっているところを。
「ゴン…フゥシォン(公覆兄)…」
 明らかに同情と笑いを押し殺した韓当の様子に、別笑!快点救命我バ(笑ってないで早く助けてくれ!)と黄蓋は大声を張り上げた。
 撤退するぞという声に、兵士を蹴り倒して周瑜は上を見上げた。
 これが曹孟徳の声か
 劉備の落ち着きのある声とはまた違う、孫策の張りのある声とも、孫権の人懐こい声とも違う。
 底力のある声だと周瑜は兵士を長江に蹴落として奪った蒙衝闘艦の上で縄を握り締めた。
 その縄を、手に巻きつけて勢いよく魏軍旗艦の船壁を駆けあがり、周瑜は旗艦にのりこむ。
 黄蓋と同じぐらいの年であろうかという老将軍が、周瑜の方を見る。
「呉軍都督周公瑾、見参」
 周瑜の声に、老将軍がふいと口元で笑ってから縄をつかみ、船を飛び降りる。
 燃え盛る船から、呉軍ほど速くはないものの遠ざかる魏軍の艦隊を見ながら周瑜は自分の剣を握りなおした。
 あれが曹孟徳、伯符よ、俺にはやはりあのオッサンはわからん。慌てもせずに、笑って船から飛び降りていったぞ
 呉軍の兵士が占領した艦の上で、周瑜は魏軍兵の死体を剣の切っ先で突っついた。
 血のりで足下がすべる。
 乗り移ってきた魯肅が、兵士の死体を眺め回して手を合わせた。
「なにをしにきたのだと思う」
 周瑜の言葉に、魯肅が首を傾げる。
 それから、これを埋葬してやりたいものだがとつぶやいた魯肅に息をついて周瑜は艦から降りた。
「残骸を全て焼き払え、あらかた魏軍のオッサンが自分で焼いていったが、まだ残っている。明日の朝にはここを発って魏軍を追う」
 周瑜の声に、将軍たちが是と声を返す。
 ここからであれば、魏軍が頼りにするのは南郡、江陵とつぶやいて周瑜は自軍の旗艦に戻った。
 その後周瑜が一晩程普に説教されたことは言うまでもない。


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