赤壁逍遥


「私の構想が三国の鼎立だということはすでにお話いたしました」
 魯粛の口上に、孫権は杯を傾けながらふむとうなずいた。
 夜も更けはじめ、そろそろ月が高くなって窓から月光を覗かせている。
「東呉と北魏、西に蜀」
 魯粛の言葉は商人の滑らかさを取り戻し、生き生きと動くように発せられる。
 商売人ならではの調子のよい言葉がきれいに並ぶのは、聞いていてある種心地のよいものである。
「今までの十年間で曹孟徳が呉に大軍を送らなかった理由は二つ、北の馬韓(馬超と韓遂)と西の劉玄徳。二つに軍を割いてしまえば、いかに魏軍が多くともこれ以上兵を割くわけには参りません。ですから呉は安穏と基盤固めに徹することができたのです」
 一息ついて杯を傾ける魯粛に、それでと孫権は先を促した。酒を一杯飲み干し、魯粛は言葉を継ぐ。
「西の劉玄徳を併合してしまえば曹孟徳の標的は北の馬韓と南の呉のみが反対勢力の筆頭に上ります。そうなれば今までに増して曹孟徳は呉に大軍を派遣する回数を増やしてくるでしょう。となれば国内の反対勢力をひとつずつ片付けている暇はなくなります。現在いまだに山越を平定していない状況では山越に兵を割かざるをえず、軍の絶対数がわが国よりも多い魏と対峙すれば必ず呉が不利をこうむりましょう。水軍をそう幾度となく出してくるとも思えませんし、陸上戦では魏呉互角か、場合によっては互角以下の戦いにしかならないことも最悪の予想に加えねばなりません」
 孫権は間があいた魯粛の言葉に腕を組んで唸った。
 新たに注がれている酒に目をやり、それを飲み干して魯粛は微笑を湛えた。
「ですが、劉玄徳をそのままに荊州に置いておいたらいかがです」
 孫権のすこしばかり色素の薄い目が、魯粛の目を正面に捕らえる。
 魯粛は空になった杯を机の上に置きなおし、それからまた口を開いた。
「現状は変わらないのですよ。劉玄徳が基礎となる地盤を手に入れることで状況が変わると思う人間もおるのでしょうが、間借りとはいえ荊州に陣取っている劉玄徳は現在すでに自分の居場所を荊州に定めていることとあまり変わりは有りません。あそこから動くつもりもないでしょうし。諸葛孔明ですか、子瑜の弟ですが、彼が劉玄徳に仕えに出るときに三国鼎立を説いたそうです。もっとも劉玄徳を君主として立てるのであれば三国鼎立以外に道はありませんが。ならば彼も荊州を軸にして展開することを根底においているでしょう。曹孟徳が荊州を欲している以上、荊州のほんのすこしを劉玄徳に残してやれば、曹孟徳と劉玄徳の攻防が続くはずです。なかなか好戦的なお人たちのようですから、放っておいても魏蜀でお互いに兵力を削りあってくれますでしょうと、私は考えているわけです」
 最後の一言を言いきって、魯粛はくすくすと笑いながら年若い主を見た。
 孫権は嘆息し、それから魯粛の方に向き直って首をかしげた。
「なるほど、しかしそれと周兄の帰還を遅らせることになんの関連がある」
 魯粛は飲み下そうとした酒を器官に詰まらせてむせかえった。
「失礼いたしました」
 口元をぬぐいながらごほごほと咳をする魯粛を不安そうに眺め、孫権は慌てなくていいからと付け加えてうなずいた。
「周公瑾の構想は二国並立でしょう。もし劉玄徳のところに手を回す前にあの人が出てきたらあっという間に呉のみでの交戦を理論展開してうやむやに文官を丸め込んでしまいますよ。それが彼の長所でもあるのですが、こちらから手を回すにせよ向こうから手を出してくるにせよ劉玄徳を押さえておかねばならんのです。荊州の割譲をえさにして」
 むせながらも魯粛は声を控えめにして孫権の方に向き直った。
 胸のあたりをさすりながら魯粛が言う言葉に孫権は口をあけた。
「そうか、周兄は一つ一つ虱潰しに潰していくのが好きな人だな」
 荊州をほんのわずかとはいえ劉備に残し、劉備を勢力として生き残らせておくなどということは周瑜には考えもつくまい。
 碁を打っていても周瑜と程普のせめぎあいなんぞというものはふたりとも潰せるところは誘い込んで一気に叩くという潰し方をするので見ていてなかなか恐ろしい。
 しかし魯粛の言うように、劉備を囮として西に残しておくというのはひとつの手であるし、真正面から幾度も曹操の攻撃に晒されるよりもよほど上策のような気がしないでもない。
「わかった、周兄を呼び戻すのはもう少し時期を待とう。劉玄徳と諸葛孔明をうまく丸め込めるのだろうな」
 孫権の言葉に魯粛はもちろんとうなずいた。

 翌日はいつも通りの朝議が行われた。
 魯粛が荊州へと発つことはすこし前に決定しており、諸葛瑾はすでに魯粛が荊州を慰問することを弟の元へと信で報せていた。
 諸葛家の情報網は恐るべきものである。
 幅広く親族を持つ諸葛家は瑯ヤ付近から分散し、最後の諸葛亮と諸葛均が蜀の劉備のもとへと居所を決めたことで三国のすべてに情報網を確立した。
 この諸葛情報網を侮ってはいけないことを魯粛は知っている。
 諸葛瑾の情報というのはなかなかに正確性に富んでいるのだ。
 友人として会話をしているときにはなかなか出てこない情報なのだが、一旦質問を始めると次々と情報が出てくる。
 曹操はどうだろうかと尋ねれば、魏の状況は以前よりも国内事情に重点を置いているようだとするりと出てくる。あるいは劉備はどうだろうかと話題にすれば、劉備はしっかり自分の場所を荊州に決めたようですねと笑いながら応える。
 普通にきけば逆毛立つような情報を、さらりと普通に応えるのが諸葛瑾なのである。
 彼にとってみればただ弟や親戚との信のやりとりで得たちょっとした話題なのだが、それが参謀の位置にいるものにとっては非常に重要なものなのだということを自覚しろとたまに魯粛は言いたくなるのだが、それを情報網のひとつにしている彼自身が提言できるわけもなかった。
 諸葛亮の三国鼎立案の情報も、諸葛瑾から得たものである。
 そして諸葛瑾は人がいい。
 隠し事のほとんどない人間である。
 弟から信が来たときには非常にうれしそうである。
 そしてにこにこと機嫌よくしているときには、大概弟か親戚から手紙が来たときである。
 そんな父を見て、息子はなんで父上はいつもにこにこしているのかと不思議がる。
 いつも機嫌が悪いよりはいいじゃないかと魯粛が言うと、息子はすこし悲しそうに、それならばなんで僕が褒められているときには顔をしかめるのだろう、とため息をついてひざを抱えた。
 憐れではあるが、それでも諸葛瑾からその理由を聞かされている魯粛は下手なことは言えなかった。
 向かいから足取り軽く諸葛瑾が歩いてくる。
 魯粛は顔をほころばせて諸葛瑾に手を振った。
「ご機嫌ですね、いい手紙でも来ましたか」
 魯粛の声に、諸葛瑾は豪快にははと笑って、あたりですと明朗な声で応える。
 影の無い男だ
 魯粛はいつも思い、それから自分も豪快に笑った。
「弟からの信ですよ。久方ぶりでしてね」
 諸葛瑾の言葉に魯粛は眉を上げる。
 人のよい笑みを故意に浮かべ、魯粛は諸葛瑾に向かってそれはよい消息だと返した。
「弟御はいかがです、お元気になさってましたか」
 魯粛の問いに諸葛瑾は人のよい笑みに、目を大きく開いてそのようですとうれしそうに声高に叫んだ。
「曹孟徳を下してこそいねど、少数の軍にしてはよい戦い方をするとうれしそうに書いてまいりましたよ。将軍たちこそ少ないものの、特に趙子龍という将軍が発奮するとなかなかの力量だと」
 自分の声の大きさに驚いたように声を潜め、それから諸葛瑾は誇らしげに蜀の参謀としての役割をそつなくこなす弟からの順風満帆ともいうような信の様子をほんのすこし魯粛に、それとなく自慢した。


7へ続く。

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