赤壁逍遥


「弟に会ったら、この信を渡していただけませんか」
 諸葛瑾の言葉に魯粛は廊下でこける寸前だった。
 この男は気がいいのはいいが、友人を郵便屋扱いか
「この信を、ですか」
 魯粛はそれでも諸葛瑾から信を受け取ると自分のふところにしまいこんだ。気の知れた友人の扱いはいいのである。
 魯子敬と呼ぶ声に魯粛は背後を顧みた。
 張昭が立っている。
 魯粛と諸葛瑾は同時に直立の姿勢になった。
 この張昭は厳格なことで有名で、孫権ですら彼の前で滅多なことは言わない。
「くれぐれも、礼節を忘れぬように。あくまでも慰問だということを心せよ」
 張昭の言葉に魯粛は内心首をすくめた。
「わかっております」
 魯粛は拱手を張昭に返して彼を見送った。
 諸葛瑾が横で息をついた。
「毎度のことだが彼の前だと緊張するな」
 魯粛は自分もため息をついて苦笑した。
「まったく、おまけに開戦を主張してから彼の目が怖いよ本当に」
 大仰に首をすくめ、両手を挙げて降参してみせる魯粛に諸葛瑾はははと笑った。

 この経緯は諸葛亮にはまったく窺い知れない。
 ただ魯粛から手渡された兄の信には、魯粛の風度のよいこと、信頼に足る男であることが書かれていた。
 船上の、自分にあてがわれた部屋で諸葛亮はしげしげと兄の信を眺めた。
 会えることを楽しみにしている
 その一言に、諸葛亮はため息をついた。
 兄はそもそも自分が呉に仕官することを望んでいた。
 その兄に呉には行かぬと信を出したときには彼を落胆させたことを知り、少々兄に悪いような気もしたのだが、劉備に仕官することを伝えたときには兄がもろ手を挙げて喜んだことで罪償いぐらいにはなったかと安堵したものだった。
 呉で会おうと書いてこなかったのは、すでに私が呉へ仕官することをあきらめたということか
 なにやら自分が落胆していることに、諸葛亮は首をかしげ、それから目のやり場に困ったかのように窓の外、眼下に見える長江の黄河よりも赤い水を眺めた。
 魯粛がこつこつと扉を叩いてから部屋に顔をのぞかせた。
「いかがです、酒でも」
 魯粛の言葉にうなずくと、諸葛亮はふいとまた長江を眺めた。
 船の横揺れは馬の揺れや、馬車の揺れとはまったく違っている。
 ゆったりと身体を左右へと押し倒すように揺れるその揺れに、諸葛亮ははじめいくどか足を取られたが今ではすっかりなれたものになった。
 船上で四日がすでに過ぎている。
「明日にはもうつきます」
 見飽きたぞとでも言うような表情をしていたのだろう。
 魯粛に図星をさされて諸葛亮は頭を掻いた。
「もうつくのですか」
 諸葛亮の天邪鬼のような応えに魯粛は苦笑した。
「船の上が好きでしたか」
「ええ、好きでした」
 くすくすと笑いながら魯粛と諸葛亮は冗談のやり取りをいくらも続けた。
 酒の肴の冗談は、尽きるところを知らない
 仙女を助けたばあさんが、三つの願いをかなえてくれるという仙女に願いをしたそうだ。一つ目には若くしてくれと、二つ目には美人にしてくれと。最後に自分の飼っている老いたオス猫を指差して、これを人間にしてくれと。人間になったオス猫は、ばあさんに後悔しているだろうと聞いたそうだ。
 そんなバカな民間伝承を肴に酒を飲み、ほどよく酔いが回ると諸葛亮の舌はいっそう滑らかに回り出した。
 ふいに諸葛亮の口をついて出た言葉に、魯粛はおどろいて注ぎかけた酒をこぼした。
 常々諸葛瑾は弟の出来がよいことを自慢にし、あれには馬鹿にされておるよと苦笑したものだがここにきて弟の口から兄には敵わぬという一言を聞くとは魯粛は思ってもみなかった。
「兄は人からよく好かれる」
 酒をまた継ぎ足し、諸葛亮はふうと息をついた。
「自慢の弟だと、諸葛子瑜にはよく自慢される」
 苦笑しながら言う魯粛に諸葛亮は豪快に笑う。
 それきり兄弟の話は出てこなかったが、魯粛はふとそろって出来のよい兄弟というのもまたよいことだけでもないらしいと心に納めた。
 呉に行かなかったことには兄がいるということも理由にあった。
 兄には一言も漏らしてはいないが、諸葛亮が諸葛瑾との思い出で一番残っているのは学問のために故郷を離れる兄の後姿である。
 他の思い出というと父と談笑している兄か、何も言わずに本を読んでいる兄で、自分が兄のそばによって本を覗きこむと、と兄は本を見せて読んで聴かせてくれたものだ。
 友人も多かったように記憶している。
 自分はといえば、気が強く、友人とは寄ると触ると討論になったことが多い。
 小学のころにはからかって自分をバカにしてきた友人に、俺はおまえよりも偉くなるんだからなとふくれっつらで怒鳴り返して二人ともいいかげんにしろと老師に怒られたこともあった。
 兄のことを知っている人間からは、兄の話をいろいろと聞かされ、人がよく、頭もよく誠実な人柄の兄には敵わないという諸葛瑾神話が彼の深層心理に形成された。
 兄と比べられることには耐えられないと思ったことは、呉に行くことに対して諸葛亮の脚を重くした。
 かといって魏に行くことだけは耐えがたかった。
 曹操は父の仇である。
 あの光景を見ずにすんだのだから兄は幸運だったとぽつりとつぶやいた諸葛亮に、魯粛は首を振った。
 それも違うと。
 魯粛の方を見て、諸葛亮は不機嫌そうにしてみせたが、魯粛は諸葛亮の酒と自分の酒とを継ぎ足して、彼の恨めしそうな瞳を避けた。
「彼は、父の死に目に会えなかったことを地団太を踏むような勢いで悔しがっているのですよ。父の死に目に会えた弟はまだ幼かった、無残なものを小さい弟たちばかりに見せてしまったと、それでも死に目に会えたのは幸運でもあると」
 諸葛亮は杯に伸ばした手をすこし止め、魯粛を見てからぐいと一気に呷って酒を喉に流し込んだ。
 そんなことを言う兄の姿は想像できなかった。

 柴桑に着いたのは翌日の夕方になったころだった。
 今日はもう遅い
 つぶやいて魯粛はそれでも孫権の元へ、自分の帰還と諸葛亮の到着を報せるべく向かった。
 孫権は魯粛の姿に、帰ったかと顔をほころばせた。
 未だ周瑜には帰還命令は出していないが、それでも曹操からの親書の内容はすべて報せたと孫権は言い、これでよかっただろうかと聞いて魯粛の方を見た。
「十分です、周公瑾には近いうちに帰ってきてもらうようにします。そのときには、また魯粛に伝令役をお任せください」
 にこりと笑う魯粛に、孫権もまたそうしようと言って笑った。
「ときに、子瑜の弟は連れてこられたか」
「お連れいたしました。誰か、諸葛孔明殿をお連れしろ」
 魯粛の声に侍女が請と言って諸葛亮を孫権のもとへ招き入れた。


8へ続く。

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