赤壁逍遥


「周公瑾!」
「在!」
 孫権の声に周瑜は堂下に進んだ。
 ひざをついて周瑜が頭を足れて拱手し終えるのを待ち、孫権はまた声をあげた。
「程徳謀!」
「在!」
 程普が周瑜の横にすすんでやはりひざをついて拱手する。
「周公瑾!右都督に任ず!」
 孫権の声に、周瑜は孫権の目をまっすぐに捕らえて口を開いた。
「是!」
 右都督とは大都督の意であり、軍の最高司令官、いわば元帥を指す。
「程徳謀!左都督に任ず!」
「是!」
 左都督は補佐であり、副元帥、あるいは元帥補といったところであろう。
 程普は横にいる周瑜をちらりと見た。
 程普は周瑜が軍議で何を言ったのかを知らない。息子の程咨が軍議に出席し、周公瑾の演説は説得力があった、父上が今日軍議を逃げたのは失敗でしたよと言って興奮して帰ってきたのを見てああそうかいと気のない返事をしただけで終わったのだ。
「両名将軍、よくよく軍を動かせよ!」
 孫権の言葉に周瑜、程普がそろって是!と拝命して下がると、それから孫権はおもむろに魯粛の名を呼んだ。
「魯子敬!」
 魯粛は進んでひざをつくと拱手した。
「賛軍校尉に任ず!」
 魯粛は是!と拝命したが、これには一部の文武官が首をかしげ、顔を見合わせて肩をつつきあった。
 校尉とは将軍に次ぐ地位であり、軍内部でも高位の実力者である。
 本来武官が務めるものだが、文官の魯粛が拝命したことで文武官ともに奇妙なことと感想を持ったのだ。
 しかし魯粛はそれを辞することなく拝命した。つまりは今後の武官としての地位を受け入れたことになる。
 魯粛にとっての転換期である。
 軍師参謀としての頭角をここで魯粛ははじめてあらわした。

 呉水軍はハヨウから出師することになる。
 ハヨウからは漢口までが訳一日、赤壁までは半日もあれば十分に着く。
 ハヨウまでの江上、船室でなにやら機嫌の悪そうな周瑜を見つけ、魯粛は声をかけた。
「右都督、なにを悩んでおいでです」
 魯粛の言葉に、周瑜は持っていたシュウマイを口に突っ込みながらなんでもないと返した。
「没事(メイシュ:なんでもない)、なんでだ」
 周瑜の言葉に魯粛は扉が開いてましたよと言い、ああとうなずく周瑜から茶を受け取った。
 茶を喉に流すと、周瑜は魯粛をしげしげと眺め回した。
 魯粛はその視線に気がつくと、周瑜に向かってなにかと不審げにまた問いかけた。
 シュウマイを食べきって周瑜は魯粛に向かってにこりと笑った。
「没想到(意外だ)、鎧を着るとどこかの将軍のようです」
 くすくすと笑って言い、それからまた肉まんをぱくつく周瑜に魯粛は大げさに嘆息してみせた。
「どこかのではなく呉の、です」
 魯粛の言葉に、ふたりはそろって笑った。
「これは、賛軍校尉殿に失礼いたしました」
「なに、冗談ですよ」
 粽の竹の葉を広げながら魯粛は周瑜の方を見る。周瑜は魯粛の目を見て首をかしげた。
「諸葛孔明とは折り合いが悪かったか」
 魯粛の口から出た言葉に周瑜はふんと鼻を鳴らして肉まんをかじる。
「ふん、あの好色バカ男、人の妻に色目使いやがった」
 美男子で愛妻家ともなれば女たちの羨望の的だが、これに関しては女の求める男の理想が服を着て歩いているようなものだと魯粛は周瑜を眺める。
 おまけに右都督などという軍部最高位を若干34歳で拝命した。
 これで詩まで作れればほぼ完璧なんだが
 魯粛は苦笑した。
 魏の曹操は自分でも詩を詠むと聞く。彼の息子ふたりの詩も風の噂に流れてくるがなかなかのものである。ところがこれだけ女に好かれる条件をそろえた美男子の周瑜が自分では詩を詠めない。
 作ることは作るのだが、自分では納得できずにそこかしこと未完成のまま放ったらかして、結局自分は詩を作るよりも吟じる方が好きなのだといって琴やら笛やらをひきずりだして落ち着く。
 どうやら天は周瑜に二物どころか三物、四物を与えたが五物までは与えきれなかったらしいと魯粛は考えた。
 三物、四物もあればすでに十分恵まれているのだが。
「あの男、うちの妻を見て振りかえっておきれいですねだとさ。へ、色好き野郎。そのおまけが曹孟徳に献上すればそれで見逃してくれるでしょうよだと。ちきしょう」
 冗談じゃないと繰り返してふてくされる周瑜に、魯粛は算了算了(もういいからいいから)と言って粽をかじった。
 なんだ、また出陣前の夫婦喧嘩で負けてそのまま来たのか
 魯粛は妻に敵わない周瑜に同情し、それからうちも似たようなものかと考えて情けなくなった。
「細君の機嫌はでるときには治ったのですか」
 魯粛の言葉に周瑜はむすっとして一応ねと応えた。
 周瑜は昨日家を出るときの妻の様子を思い出し、なにやら狐につままれたようだったと考えながら茶をすすった。
 手紙を書くわねなんぞとは、妻の言う言葉ではなかった。
 普段戦に出陣するというと、死んで帰ってきてもしらないからと天邪鬼のように恨めしげに見送ってくれる妻は、なぜか昨日は信を書くと言い出した。
 書いたところでそれを陣中まで毎日届けてくるのかと聞いた周瑜に、それも面倒ねと終わらせて家財の無だ遣いになりそうな妻の計画は終わったのだが、一体なんの風向きでそうなったのか実のところ周瑜にはさっぱりわかっていない。
 女たちの考えることはさっぱりわからんと周瑜は首をひねった。
 魯粛にしても同様である。
 魯家の妻は、夫が賛軍校尉に任じられたと聞くと、あなたも戦にいらっしゃるのとしおらしいことを聞き、うちの妻はおとなしくて妻の鑑のようだと満足した彼に、それなら厚めの打掛がいるわねと言って魯粛をむせかえらせた。
 驚かないのかと聞いた魯粛に、妻はいつかはどうせ戦に行くのでしょう、それがすこし早かっただけのことよと穿ったことを言ってみせた。
「喧嘩できるのもよい夫婦です」
 魯粛の言葉に周瑜は顔をほころばせた。
「確かに、言いたいことを言えるのは恵まれた夫婦です」
 いつも夫婦喧嘩の話を不機嫌にしているようでいて周瑜が愛妻家だというのは誰もが知っていることである。
 周瑜の夫婦喧嘩話はいつも途中からは惚気話に変わる。
 あれで可愛いところもあるのですとまた惚気話の一端が出て、魯粛はあわてて杯を取ると乾杯と杯を机に軽くぶつけて周瑜にかざし、それを受けて周瑜は首をすくめながら自分の杯を軽く机にぶつけて魯粛の方にかざした。
「漢一の夫が漢一の妻を自慢する話はこれでもう耳にタコができましたよ」
 苦笑しながら自分の耳を引っ張ってみせる魯粛に、周瑜はははと笑いながら頭をかいた。


10へ続く。

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